CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
龐淯
禁を破って刺史を弔い、刀を懐に仇の門をくぐった義士
龐淯は、父の仇を討った烈女・趙娥の息子です。武威太守の張猛が刺史の邯鄲商を殺し「弔う者は死罪」と布告すると、官を捨てて昼夜走り、遺体の前で号泣し、懐に匕首をのんで張猛の屋敷に乗り込みました。張猛はその義に打たれて殺しませんでした。のちにも、囲まれた城を夜に抜け出して救援を求め、渋る郡の前で剣に伏して死のうとしています。陳寿は「剣に伏すことを憚らず、誠は隣国を感ぜしむ」と評しました。経歴は『三国志』魏書「龐淯伝」をもとにしています。
酒泉表氏の人で、字は子異。母は父の仇を討った趙娥。涼州従事として破羌県長を代行していたとき、武威太守の張猛が刺史の邯鄲商を殺し、弔う者は死罪と布告した。龐淯は官を捨てて昼夜走り、遺体の前で号泣し、匕首を懐に張猛の門をくぐった。張猛は「至忠の人を殺せば、州の義士を誰が従えよう」と言って殺さなかった。のち太守・徐揖の主簿となり、黄昂の反乱で城が囲まれると妻子を置いて夜に城を抜け、張掖・敦煌に救援を求めた。二郡が渋ると剣に伏して死のうとし、二郡はその義に感じて兵を出した。徐揖は城とともに死に、龐淯はその遺体を郷里に送って三年喪に服した。曹操に辟され、文帝のとき駙馬都尉・西海太守、関内侯。
THE WAY OF LIFE
龐淯の生き方
母が父の仇を討ったのは、龐淯が幼いころのこと。その息子は、誰かの死を見過ごさない人に育ちました。刺史を弔う者は死罪、という布告を聞いて、彼が最初にしたのは、官を捨てて走ることでした。
二郡が救援を渋ったとき、龐淯は説得を重ねるのではなく、剣に伏そうとした。それで兵が動いた。言葉より先に、自分の命を差し出す人です。
持ち味と、その裏側
義と見れば、立場も命も惜しまずに動く胆力。それが人を動かし、敵さえ刃を収めさせた。一方で、妻子を置いて城を出るような激しさは、周りの人には重かったかもしれない。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生没年不詳(後漢末〜魏)
涼州酒泉郡表氏県の人。字は子異。父は龐子夏、母は趙娥。
- 母は、父の仇・李寿を白昼に討って自首した趙娥。州郡はその行いをよしとして罪に問わなかった。
- 涼州従事として破羌県長を代行していたとき、武威太守の張猛が反乱を起こし、雍州刺史の邯鄲商を殺した。張猛は「邯鄲商の喪に臨む者は、死罪にして赦さない」と布告した。
- 龐淯はこれを聞くと官を捨て、昼夜走って武威に着き、邯鄲商の遺体の前で号泣した。それから張猛の門に行き、匕首を懐にのんで、面会のついでに張猛を殺そうとした。張猛の兵が龐淯を縛ろうとすると、張猛は嘆いて言った。「私は刺史を殺した罪を負っている。この人は至忠で名が通っている。これをまた殺せば、どうやってこの州の義を行う士を従えられよう」。そして喪に服させ、放した。龐淯はこれより忠烈の名で知られた(龐淯伝、裴注引『魏略』)。
- 太守の徐揖に請われて主簿となった。郡の黄昂が反乱を起こして城を囲むと、龐淯は妻子を置いて夜に城壁を越え、張掖・敦煌の二郡に急を告げた。二郡は疑って兵を出そうとしなかった。龐淯が剣に伏して死のうとすると、二郡はその義に感じて兵を起こした。
- 援軍が着く前に城は落ち、徐揖は死んだ。龐淯は徐揖の遺体を収めて郷里に送り、三年喪に服してから戻った。曹操はこれを聞いて掾属に辟した。
- 文帝が即位すると駙馬都尉となり、西海太守に遷り、関内侯の爵を賜った。のち中散大夫に召され、没した。子の龐曾が跡を継いだ。
- 酒泉郡は、母の趙娥と龐淯の母子の肖像を役所の壁に描き、銘を刻んで称えたと『魏略』は伝える。陳寿は「龐淯は剣に伏すことを憚らず、誠は隣国を感ぜしむ」と評した。
主な出典
『三国志』魏書「龐淯伝」(二李臧文呂許典二龐閻伝)、裴松之注引『魏略』、『太平御覧』引『魏略』。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:中立・善
禁令を破って弔い、官を捨てて走ったが、それは忠義という筋を通すためだった。喪に三年服するなど礼も守っていることから、規律は中立に置いています。
面識のあるなしにかかわらず、刺史と太守のために命を懸けて動いたことから、動機は利他寄りに置いています。母の名を背負う家の人としての面もあり、強い利他とまではしていません。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。