CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
龐徳
死を恐れず筋を通した猛将
龐徳は、字を令明といい、涼州南安郡狟道県の人です。初平年間から馬騰に従って羌族・氐族の反乱を討ち、のち馬超に仕えました。馬超が渭南で敗れると、ともに漢中へ逃れ、張魯のもとに残ります。建安20年(215年)に曹操が漢中を平定すると降り、立義将軍・関門亭侯となりました。建安24年(219年)、樊城で関羽に囲まれ、矢が尽きても短い武器で戦い、「たとえ国の亡霊となっても、賊将にはならない」と降伏を拒んで斬られます。曹操は涙を流して悼み、子二人を列侯に封じました。経歴は『三国志』魏書 龐徳伝をもとにしています。
馬超のもとから曹操に降り、樊城で関羽に立ち向かって降伏を拒み、散った猛将。
THE WAY OF LIFE
龐徳の生き方
降る前の経歴にとらわれず、いまの主に受けた恩には最後まで応える。龐徳は、筋を曲げない強い覚悟と、折れない意地を持つ人物像です。
危機を前にしても退かず、敵の降伏の誘いを断った。恐れより義を選ぶ姿を、挑戦と信条の高さに重ねています。
持ち味と、その裏側
追い詰められても揺らがない覚悟と、受けた恩に応える筋の通し方。一方で、一度決めると引き返しにくいため、状況が変わったときに立ち止まる余地を残すことも大切です。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年不詳〜建安24年(219年)
字は令明。涼州南安郡狟道県の人。
- 初平年間(190年代)から馬騰に従い、羌族・氐族の反乱を討って校尉に昇進した。
- 建安13年(208年)に馬騰が入朝すると馬超に仕え、建安16年(211年)に馬超が渭南で敗れると、ともに漢中へ逃れた。
- 馬超が益州へ去った建安19年(214年)は張魯のもとに残り、建安20年(215年)に曹操が漢中を平定すると降って、立義将軍・関門亭侯となった。
- 建安24年(219年)、関羽に備えて樊城に駐屯。漢水の氾濫で関羽の水軍に囲まれ、矢が尽きたあとも短い武器で戦い続けた。
- 捕らえられても「たとえ国の亡霊となっても、賊将にはならない」と降伏を拒んで斬られた。曹操は涙を流して悼み、子二人を列侯に封じた。棺を持って出陣したという話は『演義』の脚色。
主な出典
『三国志』魏書 龐徳伝、『三国志演義』
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
与えられた任務と、仕える国への義理を果たす姿から、規律は秩序寄りとしています。
受けた恩に報いるという覚悟から、動機は中間よりやや利他寄りに置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。