CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
黄皓
後主の側近として蜀末の政を動かした宦官
黄皓は、蜀漢の宦官です。後主・劉禅に寵愛され、董允の存命中は抑えられていましたが、陳祗の時代に政に関わり、景耀元年(258年)に専政したと記されます。悪い面の記録は複数ありますが、良い面を示す記録は見つかっていません。ここでの人物像は、記録に残る行動からの読みで、善人の話も、生来の悪人という話も、補っていません。
蜀漢の宦官。後主に寵愛され、陳祗と結んで政に関わり、258年に専政したと記される。姜維の更迭を図り、263年の魏の侵攻への備えを退けた。蜀の滅亡時、鄧艾に捕らえられたが、賄賂で殺されるのを免れた。
THE WAY OF LIFE
黄皓の生き方
董允が生きている間は、悪事を働くことを敢えてしなかった。本文は、その理由を、董允を畏れたためとする。決断と構想を中ほどに置いたのは、人事や上奏を通じて政を動かした記録に基づく読みです。
姜維を更迭して閻宇を立てようとした記録、劉永への讒言、羅憲の左遷から、信条と規律は低めに置いています。一方で、後主に取り入る機転は本文に残り、表現は高めにしています。
持ち味と、その裏側
後主に取り入る機転と、宮中で人事や上奏を動かす力。郤正とは三十年にわたり隣り合って過ごし、憎まれも愛されもしなかったと本文にあり、近くにいた人をすべて排斥したわけではない。ただし、善政や人助けなど、黄皓自身の功績として確認できる記録は見つかっていません。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生没年不詳(263年の蜀滅亡の時点で存命)
蜀漢の宦官。出身、生年、若い頃の経歴は伝わらない。
- 蜀漢の宦官。後主・劉禅が成長すると、後主はこの黄皓を寵愛した。本文は、黄皓が「便辟佞慧」で、へつらって取り入ろうとしたと記す。この四字は陳寿の人物描写で、行動の記録とは区別して読む。出身と生年は、確認できない。
- 董允は、上では主君に正しく諫め、下では黄皓をたびたび責めた。黄皓は董允を畏れて悪事を働かず、董允の存命中、官は黄門丞を超えなかった(董允伝・本文)。「不敢為非」は董允の存命中の記述で、生来の悪人だったとも、悪事を行う力がなかったとも書いていない。
- 董允の後任の陳祗は、黄皓と表裏をなし、黄皓は政事に関わり始めた。陳祗の死後は、黄門令から中常侍・奉車都尉に進み、威柄を操ったと本文は記す。後主伝は、景耀元年(258年)に「宦人黄皓、始めて専政す」と書く。関わり始めた時期と、専政した時期は別である。
- 右大将軍の閻宇は黄皓と結び、黄皓は密かに姜維を退けて閻宇を立てようとした。姜維もこれを疑って危険を感じ、成都に戻らなくなった(姜維伝・本文)。実際に姜維が解任されたとは書かれておらず、記されているのは、意図と、姜維の受け止め方である。
- 裴松之注に引く『華陽国志』は、姜維が黄皓の専横を憎んで後主に殺すよう進言したと伝える。後主は「黄皓は使い走りの小臣にすぎない。昔、董允が歯ぎしりして憎んだのを、私はいつも恨んだ。あなたが気にするほどのことではない」と答え、のち、黄皓に姜維のもとへ行って謝罪するよう命じたという。謝罪の中身や、そのあとの二人の関係は、分からない。
- 景耀6年(263年)、姜維は魏軍の侵攻を警戒し、張翼・廖化らを要地の防備に出すよう上奏した。黄皓は、鬼神と巫を信じ、敵は来ないと考えて、後主に上奏して、この件を止めさせた。群臣はこれを知らなかった(姜維伝・本文)。実際に防備を整えるかどうかの責任は、後主にもある。
- 諸葛瞻・董厥らの時代、黄皓が機柄を弄んでも、みな護るばかりで、正すことができなかった。樊建だけは、黄皓と親しく往来しなかった(諸葛瞻伝・本文)。この記事は、黄皓の権勢を抑えられなかった高官の責任も問うている。裴松之注に引く『華陽国志』は、諸葛尚が「父子は国恩を受けながら、早く黄皓を斬らず、敗北を招いた」と嘆いたと伝える。これは本文ではなく、後代の記録である。
- 後主の異母弟の劉永は、黄皓を嫌っていた。黄皓は、用いられると、劉永を後主に讒言し、劉永は十年余り、朝見できなかった(劉永伝・本文)。『晋書』羅憲伝は、黄皓が政に関わり、多くの者が従うなか、羅憲だけが従わず、黄皓が怒って、羅憲を巴東太守に左遷したと記す。
- 郤正は、宮中の官職で、黄皓と隣り合って三十年付き合った。黄皓が貴い身分になって威権を操っても、郤正は黄皓に愛されもせず、憎まれもせず、官は六百石にとどまったが、災難を免れた(郤正伝・本文)。黄皓が近くにいた人すべてを排斥したわけではない、ということは言えるが、これをもって黄皓が寛大だったとまでは言えない。
- 陳寿は、後主伝の評で、後主は、賢い宰相に任せれば道理に従う君、宦官に惑わされれば暗愚な君になると述べる。名指しは黄皓ではなく、評の対象は、まず後主である。董允伝の評は、董允を称賛するが、黄皓を名指しして論じてはいない。
- のち、孫盛『異同記』(裴松之注)は、陳寿はかつて諸葛瞻の下で辱めを受けたため、罪を黄皓に帰したのだ、と、常璩が蜀の古老から聞いたと伝える。陳寿本人の言葉ではなく、伝聞の形の説で、事実としては確かめられていない。後代には、陳寿の記述に私怨が影響したとの説も伝わる、と書くにとどめる。
- 263年、蜀が降ると、鄧艾は、黄皓が奸険だと聞いて拘束し、殺そうとした。黄皓は鄧艾の側近に多くの賄賂を贈り、免れた(董允伝・本文)。賄賂の相手は「艾左右」で、鄧艾本人ではない。『華陽国志』も、賄賂を受けて赦したと記す。確認できた原典に、これ以後の黄皓の足取りと最期の記録はない。
- 『晋書』李密伝は、李密が、後主は諸葛亮を得て魏に抗し、黄皓を任じて国を失った、と述べたと記す。これは蜀の出身者の後年の政治的評価で、黄皓個人の最期の記録ではない。
- 『三国志演義』第119回は、司馬昭が黄皓を市に出し、凌遅で処刑したと描く。確認した正史・『華陽国志』・『晋書』には、黄皓が処刑されたという記事はなく、史実の説明に書く根拠にはできない。
- 黄皓の悪い面は、人事への介入、讒言、姜維への工作、備えへの妨げなど、本文に具体的な記録がある。良い面は、確認できた史書に、善政や人助けの記録が見つかっていない。良い面を無理に作らず、記録にない私生活や生まれつきの性格も決めつけずに書いている。
主な出典
『三国志』蜀書 董允伝・郤正伝・姜維伝・後主伝・諸葛瞻伝・劉永伝、『晋書』羅憲伝・李密伝、常璩『華陽国志』(裴松之注に引く孫盛『異同記』を含む)、『三国志演義』は区別して記載
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:混沌・悪
董允のもとでは行動を控え、のちは後主の寵愛を背景に、人事や上奏を動かした記録から、規律は裁量寄りとしています。
姜維の更迭を図った記録、羅憲の左遷、劉永への讒言など、自分に従わない者を遠ざけた行動が複数あり、動機は個人の権勢寄りに置いています。ただし、本人の内心は史書に書かれていません。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。