CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
黄権
義を尽くして敗れ、それでも筋を曲げなかった人
黄権は、字を公衡といい、巴西郡閬中県の人です。はじめ劉璋に仕え、劉備を益州に迎え入れることに反対しました。劉備が益州を得てからは臣下となり、建安24年(219年)の漢中の戦いでは、漢中を取るべきだという進言が採られています。黄武元年(222年)の夷陵の戦いで、江北の軍を率いていましたが、呉軍に退路を断たれて蜀に戻れず、魏に降りました。蜀の役人が家族の処罰を求めても、劉備は「私が黄権に背いたのであって、黄権が私に背いたのではない」と言って罰しなかったといいます。魏では車騎将軍・儀同三司にまで昇りました。経歴は『三国志』蜀書 黄権伝をもとにしています。
蜀の将。夷陵の戦いで退路を断たれ、魏に降った。劉備は残された家族を罰しなかった。
THE WAY OF LIFE
黄権の生き方
主君の決断に異を唱えても、いざとなれば最後まで務めを果たす。黄権は、冷静な諫言と、義を重んじる誠実さを併せ持つ人物像です。
難しい立場に置かれても、人としての筋を曲げなかった。信条と規律の高さに、その誠実さを重ねています。
持ち味と、その裏側
情勢を冷静に見て、必要なときに諫める勇気と、立場が変わっても保たれる誠実さ。一方で、抱えた葛藤を表に出さないため、周囲に気持ちが伝わりにくいこともあります。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年不詳〜240年ごろ
字は公衡。巴西郡閬中県の人。
- 初め劉璋に仕え、劉備を益州に迎え入れることに反対した。のち劉備が益州を得ると、その臣下になった。
- 建安24年(219年)の漢中の戦いでは、漢中を取るべきだという進言が採られ、劉備が漢中を得る流れをつくった。
- 黄武元年(222年)の夷陵の戦いで、江北の軍を率いていたが、呉軍に退路を断たれて蜀に戻れず、魏に降った。
- 蜀の役人が黄権の家族の処罰を求めたが、劉備は「私が黄権に背いたのであって、黄権が私に背いたのではない」と言って、家族をそのまま遇したという。
- 魏では鎮南将軍・育陽侯などを務め、のち車騎将軍・儀同三司にまで昇った。子の黄崇は蜀に仕え、綿竹で戦死した。
主な出典
『三国志』蜀書 黄権伝
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
任された務めと立場の筋を、きちんと守る姿から、規律は秩序寄りとしています。
主君への義理と、人としての筋を守る姿から、動機は利他寄りに置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。