CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
麴義
強弩と先登で公孫瓚の騎兵を砕き、のち袁紹に斬られた人
麴義は、涼州の人で、袁紹配下の将です。羌との戦いに通じていたと伝わり、はじめ冀州牧の韓馥に仕えましたが、のち袁紹の配下に入りました。界橋の戦いでは、先登と呼ばれる精兵八百と強弩千張を率い、盾の陰に身を伏せて敵が十歩ほどに近づくまで待ち、強弩を一斉に放ってから槍で突き崩して、公孫瓚の騎兵を破ります。界橋まで追って後衛を破り、陣営を奪ったとも伝わります。しかし戦功を誇って驕り高ぶるようになり、『後漢書』によれば、袁紹に呼び出されて斬られました。『演義』では趙雲に討たれますが、史書に二人が戦った記録はありません。経歴は『後漢書』袁紹伝と『三国志』魏書 袁紹伝の注(『英雄記』)をもとにしています。
袁紹配下の将。涼州の人で、羌との戦いに通じていたと伝わる。界橋の戦いで先登の精兵と強弩を率い、公孫瓚の騎兵を破った。のち、功を誇って袁紹に斬られた。
THE WAY OF LIFE
麴義の生き方
盾の陰に身を伏せ、近づいた騎兵を一斉に射る。麴義は、引きつけて一撃で決める戦い方の人物像です。
功を誇る振る舞いが、袁紹の警戒を招いたと伝わる。規律を低めに置き、その危うさを重ねています。
持ち味と、その裏側
少数の精兵と強弩で、数に勝る騎兵を迎え撃つ戦術眼と、陣頭に立つ胆力。一方で、主君との距離の取り方に危うさがあり、功績の大きさがそのまま警戒につながった人物です。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年未詳〜没年未詳(公孫瓚の滅亡した199年より前とみられる)
涼州の人。
- 涼州の人で、羌との戦いに通じていたと伝わる。麴義だけを扱う独立の伝は『三国志』になく、事跡は袁紹伝・公孫瓚伝とその注、『後漢書』に散らばって残る。
- はじめは冀州牧の韓馥に仕えた。韓馥が袁紹を警戒して、その軍の食糧を絞ると、麴義は韓馥に背いて撃ち破り、袁紹の配下に入った、と『資治通鑑』は伝える。
- 界橋の戦い(191年末〜192年春。年に異説がある)で、公孫瓚は騎兵を押し出して袁紹軍に迫った。麴義は、先登と呼ばれる精兵八百と強弩千張を率いて前に立った。『英雄記』によれば、兵は盾の陰に身を伏せ、敵が十歩ほどに近づくまで待ってから、強弩を一斉に放ち、その後に槍で突き崩した。
- 公孫瓚の将・厳綱は、この戦いで死んだとも、生け捕られたとも伝わる(『英雄記』と、公孫瓚伝の注とで異なる)。公孫瓚の騎兵は退き、麴義は界橋まで追って後衛を破り、陣営を奪ったという。
- 『英雄記』は、このとき少数の供だけで進んでいた袁紹が、公孫瓚の騎兵に不意を突かれ、田豊に退避を勧められても退かなかった話を載せる。そこへ麴義の兵が到着して、騎兵を追い払ったという。
- その後、麴義は戦功を誇り、驕り高ぶるようになった。『後漢書』は、袁紹が麴義を呼び出して斬り、その軍勢を併せたと書く。年は記されず、公孫瓚が滅んだ199年より前だったと推測される。
- 『三国志演義』では、趙雲が麴義を討つ。しかし史書には、二人が戦った記録はない。
主な出典
『後漢書』袁紹伝、『三国志』魏書 袁紹伝・公孫瓚伝の裴松之注に引く『英雄記』、『資治通鑑』
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:混沌・中立
戦功を鼻にかけ、主君に警戒された記録から、規律は混沌寄りとしています。
戦功を誇ったとされる一方、私利だけで動いた記録も乏しいため、動機は中間に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。