CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
鮑勲
太子にも皇帝にも、曲げずに諫めた人
鮑勲は、泰山郡平陽県の人で、曹操の挙兵を助けて戦死した鮑信の子です。建安22年(217年)、太子曹丕の中庶子となり、太子夫人の郭氏の弟が官布を盗んで死罪に当たったとき、太子が何度も赦すよう頼んでも、独断で赦さず上奏しました。曹丕が即位すると、服喪中の狩猟を諫め、追従した劉曄を強く非難して、右中郎将に左遷されます。黄初6年(225年)の呉への親征でも面と向かって諫め、さらに怒らせました。のち廷尉に収められ、鍾繇・華歆・陳群らが父の功を挙げて助命を求めましたが許されず、誅殺されます。死んだ日、家に余財はなかったといいます。経歴は『三国志』魏書 鮑勲伝をもとにしています。
魏の文官。鮑信の子。太子時代の曹丕に仕え、のち文帝となった曹丕を諫め続けた。226年、文帝の怒りにふれて誅殺された。
THE WAY OF LIFE
鮑勲の生き方
相手が太子でも皇帝でも、正しいと考えたことを口にした。鮑勲は、信じる筋を曲げない人物像です。
助命を求める重臣がいても許されず、最後まで態度を変えなかったと伝わる。信条と規律の高さに、その一貫を重ねています。
持ち味と、その裏側
立場の強い相手にも言うべきことを言う勇気と、規則を曲げない一貫性。一方で、主君の怒りを何度も受けてきたため、伝え方の工夫が命運を左右する立場でもありました。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年未詳〜黄初7年(226年)
泰山郡平陽県の人。鮑信の子。
- 鮑信の子。鮑信は曹操の挙兵を助けた人物で、戦死している。裴注が引く『魏書』は、鮑勲が「清白で高い節操があった」と伝える。
- 建安22年(217年)、太子曹丕の中庶子となった。太子夫人の郭氏の弟(曲周県の吏)が官布を盗み、法では死罪に当たった。太子は鄴に留まり、何度も手書きで赦すよう頼んだが、鮑勲は独断で赦さず、そのまま上奏した。太子はこれを恨んだ。
- 曹丕が文帝として即位すると、服喪中の狩猟を諫めた。文帝はその上疏を自ら破り、なお狩りに出た。途中で「狩りの楽しさは音楽と比べてどうか」と尋ね、侍中の劉曄が「狩りが勝ります」と答えると、鮑勲は強く反論して劉曄の追従を非難した。文帝は怒り、鮑勲を右中郎将に左遷した。
- 黄初6年(225年)の呉への親征でも面と向かって諫め、さらに文帝を怒らせて、治書執法に左遷された。
- のち、軍営の令史の劉曜が罪を得て、鮑勲が上奏して退けた。すると劉曜が、鮑勲が孫邕の件を私的に処理したと密かに上表した。文帝は「鮑勲は鹿を指して馬とする(是非をねじ曲げる)」と責める詔を下し、鮑勲は廷尉に収められた。廷尉は懲役五年相当と議したが、三官は罰金二斤に留めるべきだと反駁した。文帝は激怒した。鍾繇・華歆・陳群・辛毗・衛臻・高柔らが、父鮑信が太祖に功があったとして助命を求めたが、許されず、鮑勲は誅殺された。
- 本文は、鮑勲は家の内を整えて清廉で、人に施しもしたが、死んだ日、家に余財はなかったと記す。その二十日ほど後に文帝も崩じ、人々は鮑勲の死を嘆き惜しんだ。曹丕の没年は226年で、鮑勲の誅殺もそのころとなる。
- 曹丕は、曹植を殺さず、曹幹を厚く遇した一方で、このように諫める臣には厳しかった。曹丕の人物像の振れ幅を示す記録である。
主な出典
『三国志』魏書 鮑勲伝(裴松之注に引く『魏書』を含む)
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
郭夫人の弟の罪を私情で赦さず、法のとおりに奏上した姿から、規律は強い秩序寄りとしています。
左遷や処罰を受けても、規則と諫言を曲げなかった記録から、動機は他者寄りの側に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。