CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
高柔
法を曲げずに争い、九十歳まで魏に仕えた人
高柔は、字を文恵といい、陳留郡圉県の人です。曹操が袁氏を平定すると菅の長に任ぜられ、処理の公正さから丞相倉曹属に辟されました。合肥で逃亡兵の妻子まで罰する旧法の過酷さを指摘して、曹操に母と弟の処刑を止めさせています。曹丕の時代には、鮑勲の助命を求めて許されず、曹叡の時代にも「廷尉は天下の平である」と述べて、法に従うよう帝に説きました。嘉平元年(249年)、司馬懿が曹爽を罷免した政変では、仮節・行大将軍事として曹爽の軍営を抑えます。景元4年(263年)、九十歳で亡くなりました。経歴は『三国志』魏書 高柔伝・鮑勲伝をもとにしています。
魏の官僚。陳留の人。曹操から曹叡まで、法に基づく政治を訴え続けた。249年の曹爽失脚の際には、曹爽の軍営を抑え、263年に九十歳で亡くなった。
THE WAY OF LIFE
高柔の生き方
君主の機嫌より、法の筋を優先した。高柔は、決まりを守ることで人を守ろうとする人物像です。
曹操・曹丕・曹叡と、仕える主が変わっても、同じ姿勢で意見を述べ続けた。信条と規律の高さに、その一貫を重ねています。
持ち味と、その裏側
権力者に対しても、法の筋を通して意見を述べる粘り強さと、制度の運用を見直す視点。一方で、強く争っても、君主の決定を覆せない場面もあった立場です。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
熹平3年(174年)頃〜景元4年(263年)
陳留郡圉県の人。字は文恵。父は蜀郡都尉の高靖。
- 字は文恵、陳留の圉の人。父の高靖は蜀郡都尉。従兄の高幹は、袁紹の甥にあたる。高幹が河北から呼び寄せると、高柔は一族とともに従った。
- 曹操が袁氏を平定すると、高柔は菅の長に任ぜられた。のち高幹が并州で反乱した際には、高柔は自ら曹操に帰順した。刺姦令史を経て、処理の公正さから丞相倉曹属に辟された。
- 張魯の討伐をめぐって、高柔は鍾繇の出兵に反対し、まず三輔の安定を図るべきだと進言した。
- 合肥で、鼓吹の宋金が逃亡した事件では、逃亡兵の妻子まで罰する旧法の過酷さを指摘した。曹操は意見を入れ、宋金の母と弟の処刑を止めた。のち、法曹掾に戻り、校事の盧洪や趙達が権限を乱用していることを批判した。
- 曹丕の時代には、妖言を告発した者を賞し、妖言を言った者を殺す法の廃止を求めた。鮑勲が曹丕の怒りにふれたとき、守廷尉だった高柔は、鍾繇・華歆・陳群らとともに、父の鮑信の功を挙げて助命を求めた(鮑勲伝)。助命は通らず、鮑勲は誅殺された。
- 曹叡の時代にも、禁苑での狩猟者の処罰をめぐり、「廷尉は天下の平(公平)である」と述べて、法に従うよう帝に説いた。公孫晃の死罪を減ずるよう求めたが、帝は受け入れず、毒杯を賜った。宮殿の造営や後宮の拡大を止めるよう進言したことも伝わる。
- 嘉平元年(249年)、司馬懿が曹爽を罷免した政変では、皇太后の詔により、高柔が仮節・行大将軍事として曹爽の軍営を抑えた。司馬懿は高柔に「君は周勃のようだ」と言った。曹爽が誅されたのち、高柔は万歳郷侯に進封された。
- 高貴郷公(曹髦)が即位すると、太尉となり、安国侯に進んだ。景元4年(263年)、九十歳で亡くなり、元侯と諡された。
- 陳寿は、高柔が法理に明るかったことを評している。
主な出典
『三国志』魏書 高柔伝・鮑勲伝
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
法の運用を重んじ、廷尉として「法を守る」ことを主張した記録から、規律は強い秩序寄りとしています。
刑罰の過酷さをただし、告発や処罰の行き過ぎを諫めた記録から、動機は他者寄りの側に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。