CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
高幹
袁紹の甥。曹操の背後を衝き、并州から壺関まで粘り抜いた男
高幹は、袁紹の甥にあたる人物で、袁紹から并州刺史に任じられました。袁紹の死後も并州を守りましたが、鄴が落ちると曹操に降伏します。ところが曹操が北方の烏桓を討っている隙に再び背き、壺関に立てこもりました。曹操自ら大軍で攻められて壺関が陥落し、荊州へ逃れる途中で殺されます。経歴は『三国志』などをもとにしています。
字は元才。兗州陳留郡圉県の人で、袁紹の甥にあたる。建安4年(199年)ごろ、袁紹から并州刺史に任じられた。袁紹の死後も并州を治めたが、建安9年(204年)8月、曹操が鄴を落とすと、匈奴の呼廚泉とともに并州を挙げて降伏した。曹操は高幹を殺さず、并州の統治を任せた。建安10年(205年)8月、曹操が幽州の烏桓を討っている隙に背き、上党太守を捕らえて壺関を閉ざした。鄴への奇襲軍は鄴の監軍校尉・荀衍に見破られて討たれ、呼応した河東の衛固らも鍾繇・張既・杜畿・賈逵らに破られた。翌年、曹操が自ら攻めると壺関は陥落し、高幹は劉表を頼って荊州へ向かう途中、上洛都尉の王琰に殺された。
THE WAY OF LIFE
高幹の生き方
袁紹の甥という縁故だけでなく、才と野心を備えた人と伝わる。袁氏が崩れていくなかでも、并州という自分の足場を手放さなかった。
一度降伏して許されたあとも、曹操の背後が空く瞬間を待って動いた。仕掛けは周到だったが、曹操の後方を支える人材は厚く、野心は実を結ばなかった。
持ち味と、その裏側
一州を預かって兵を集め、機をうかがって動く胆力。曹操の背後を衝く策は、曹操を二度危うくさせた。一方で、自信が強すぎる面があり、四方の游士を集めながら人を選ぶ目は危ういと見られた。仲長統は「志は大きいが才が伴わず、人を好むが選べない」と戒めたが、聞き入れられなかった。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年不詳〜206年
兗州陳留郡圉県の人。字は元才。袁紹の甥にあたる。
- 兗州陳留郡圉県の人で、伯父は袁紹。初平2年(191年)、袁紹の命で韓馥のもとへ使者に立ち、冀州を袁紹に譲らせた一行に加わった。
- 建安4年(199年)ごろ、袁紹から并州刺史に任じられた。袁譚・袁煕と同じく一州を任される、異例の待遇だった。
- 袁紹の死後、袁尚の命で郭援とともに河東へ攻め入った。馬騰・韓遂や匈奴の呼廚泉と結んで数万の軍勢となったが、馬騰が曹操側に戻り、郭援が龐徳に討たれて窮地に陥った。
- 建安9年(204年)8月、曹操が鄴を落とすと、呼廚泉とともに并州を挙げて降伏した。曹操は高幹を処刑せず、并州の統治を任せた。
- 建安10年(205年)8月、曹操が幽州の烏桓を討っている隙に背き、上党太守を捕らえて壺関を閉鎖した。鄴への奇襲軍は荀衍に見破られて誅され、呼応した衛固・張琰・張白騎らも鍾繇・張既・杜畿・賈逵らに破られた。
- 翌年1月、曹操が自ら大軍で攻めてきた。高幹は呼廚泉を頼ったが援軍は得られず、三か月後、曹仁の策で壺関が陥落した。
- 高幹は劉表を頼って荊州へ逃れようとしたが、途中で上洛都尉の王琰に殺され、首は曹操に届けられた(206年)。
主な出典
『三国志』魏書(袁紹伝・高柔伝などに関連記事)。経歴は Wikipedia「高幹」の記述も参照しています。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:中立・悪
降伏と離反を繰り返し、機を見て動く姿から、規律は中立〜やや混沌寄りに置いています。
并州を預かる立場にありながら、降伏の後も曹操の留守を狙って背いたことから、動機は自己(野心)寄りに置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。