CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
高堂隆
宮殿造営を諫め続け、病床でも上疏を口述した魏の諫臣で、曹叡の師
高堂隆は、字を升平といい、泰山郡平陽県の人で、魯の儒者・高堂生の後裔とされます。若いころ、郡の督軍が太守を呼び捨てにして叱ると、剣に手をかけて督軍を叱りつけ、「臣下が主君の名を呼ぶのは、義として討つべきことだ」と述べて、場を驚かせました。黄初3年(222年)に平原王の傅に選ばれ、のちの曹叡を教えます。曹叡の時代には、長安から大鐘を取り寄せようとしたことや、崇華殿の火災などを機に、宮殿の造営を繰り返し諫めました。景初元年(237年)、病床でも上疏を口述して亡くなっています。経歴は『三国志』魏書 辛毗楊阜高堂隆伝をもとにしています。
字は升平。泰山郡平陽県の人。魯の儒者高堂生の後裔。若いころ、剣に手をかけて督軍を叱り、のち平原王の傅として曹叡を教えた。曹叡の代に、大鐘の取り寄せ、崇華殿の火災、陵霄闕の鵲の巣などを機に、宮殿造営を諫め続けた。景初元年(237年)、病床でも上疏を口述して没した。
THE WAY OF LIFE
高堂隆の生き方
若いころ、上役を呼び捨てにした督軍に、剣の柄に手をかけて礼を説いた。礼に外れたことは、権力者でも見逃さない人です。
天文・災異の学を使い、天の戒めとして皇帝に諫言した。表現は最高に置いています。
持ち味と、その裏側
経書と災異の学を使い、感情に流されず筋道で説く諫言の力。崇華殿の火災、陵霄闕の鵲の巣、彗星など、事件ごとにその場にふさわしい引用で諭す、機を見る目。若いころから礼を外さず、督軍に剣に手をかけて叱る度胸。一方で、陳寿は、正朔の改定を強く推したことを『意が過ぎて通じなかった』と評した。統率は、郡や県の長を務めただけで軍を率いた記録はなく、低めに置いています。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年不詳〜景初元年(237年)
泰山郡平陽県(現在の山東省新泰)の人。字は升平。魯の儒者高堂生の後裔。曹叡の平原王時代の傅。子は高堂琛。光禄勲。関内侯。
- 泰山郡平陽の人で、字は升平。魯の高堂生の後裔という。若いころ諸生となり、泰山太守の薛悌に郡の督邮に任じられた。
- ある時、郡の督軍が薛悌と争い、名を呼び捨てて叱った。高堂隆は剣に手をかけて督軍を叱った。「昔、魯の定公が侮られたとき、孔子は階段を上がって諫めた。趙王が秦王の求めで筝を弾いたとき、藺相如は缶を進めて秦王に打たせた。臣下が主君の名を呼ぶのは、義として討つべきことだ」。督軍は顔色を失い、薛悌は驚いて立ち上がり、止めた。のち官を去り、済南に避難した。
- 建安18年(213年)、曹操に召されて丞相軍議掾となり、歴城侯の曹徽の文学、のち相に転じた。曹操が没したとき、曹徽は哀しまず、遊猟に出かけた。高堂隆は義をもって正し、補佐の節をよく果たした。黄初年間に堂陽県長となり、黄初3年(222年)には平原王の傅に選ばれた。この平原王が、のちの曹叡である。
- 太和元年(227年)、曹叡が即位し、給事中・博士・駙馬都尉となった。即位後に宴会を開こうとする群臣に、高堂隆は「唐・虞には音を絶つ哀しみがあり、高宗は喪に服して言葉を発しなかった。だから至徳が四海に光った」と述べて反対し、曹叡は敬って納めた。陳留太守となり、70歳余の至行ある犢民の酉牧を計曹掾に挙げた。曹叡は喜び、酉牧を特別に郎中に任じて称えた。
- 高堂隆は散騎常侍に召され、関内侯となった。天文に詳しいため、太和暦の推校を命じられた。太史の楊偉・駱禄としばしば争い、数年にわたって議論が続いた。詔は太史の説に従い、高堂隆の説は採られなかったが、遠近の人はその精微さを知った(『魏略』)。
- 青龍年間、曹叡が大いに宮殿を営み、長安から大鐘を取り寄せようとした。高堂隆は上疏して「周の景王は大銭と大鐘を作って周の徳を衰えさせた。今の小人は秦・漢の奢靡を説いて聖心を惑わし、亡国の器を取り寄せようとする」と述べた。
- 曹叡は上表を卞蘭に渡し、「興衰は政にあり、音楽は関係ない。教化が行き渡らないのは鐘の罪か」と反論させた。高堂隆は「礼楽は治の大本です。新声を発して商の紂は亡び、大鐘を鋳て周の景王は衰えました。君主の行いは必ず書かれます。聖王は欠を聞くことを楽しみ、忠臣は節を尽くします」と答えた。曹叡は善しとした。
- 侍中に進み、太史令を兼ねた。崇華殿が火災に遭い、曹叡が「何の咎か。礼に祈禳の義があるか」と問うと、高堂隆は「災変は教え戒めるためです。『上が倹約しなければ、下も節しない。ゆえに火が起こる』。宮人が多すぎるため宮室を広げざるを得ない。淑やかな者だけ残し、周の制に倣い、他は出してください」と答えた。
- 曹叡が「漢武帝は柏梁台が焼けたとき、宮殿を大きく建てて火を厌した。その義は」と問うと、高堂隆は「越の巫が勧めた計で、聖賢の訓えではありません。あとに江充の巫蠱事件が起きています。いま民役をやめ、宮室は風雨と礼儀に足りるだけにし、焼けた所は清めて何も建てなければ、嘉禾が生えるでしょう」と答えた。曹叡は崇華殿を復したが、九龍が現れたとして、九龍殿と改めた。
- 陵霄闕を建てるとき、鵲が巣を作った。曹叡が理由を問うと、高堂隆は「『詩』に『鵲が巣を作り、鳩が居る』とあります。宮室が成らないまま、別の姓の人が住むことの兆しです。天の戒めを聞き、役をやめ、倹約して徳を修めてください」と述べた。さらに「臣は腹心です。陛下を助け、国を保てるなら、身が死に族が滅んでも辞しません。災いを恐れて黙っては、切実な忠言を陛下にお聞かせできません」と述べ、曹叡は感動して顔色を改めた。
- 同年、彗星が房・心・尾の間で明るく輝くと、高堂隆は上疏した。宗廟、車馬庫、倉の順に造るべきなのに、天地の祭祀や宗廟の制度は定まらないまま殿堂を修めている。民は命に堪えず怨んでいる。「天は民の聡明を通して聡明であり、民の畏れを通して畏れる」と述べ、彗星を、天が慈父のように諭している兆しだと説いた。
- 国には征伐が多く、刑罰も厳しかった。高堂隆は、礼楽を行い、明堂を整え、儒者を尊び、隠逸を挙げ、正朔を改め、服の色を変え、孝悌と倹約を勧めれば、戦わずに天下を統一できると説いた。曹叡は従い、青龍5年(237年)の春3月を景初元年の夏4月とし、朝服を黄色にし、宗廟の供えは白を尚び、丑月(12月)を正月とした。高堂隆は光禄勲に進んだ。
- 曹叡が太行山の石英や穀城の文石を取り、芳林園に景陽山を築き、太極殿の北に昭陽殿を築いた。黄龍・鳳凰を鋳て、金墉殿・凌雲台・陵霄闕を飾り、天災人禍が続いた。高堂隆は上疏で、禹が洪水を治めるのに22年かかった例を引き、秦の始皇が阿房宮を築き、万里の長城を築いても、一匹夫が叫んで天下が覆ったことを述べた。
- さらに、将吏の俸禄が過去の5分の1ほどに減り、牛肉にまで税がかかっているのに、宮殿の造営に費やしている、と財政の実情を挙げた。『臣は三司九列・台閣の近臣として、財の増減を見て陳べないなら、事務をこなす臣であっても耿直の臣ではない』という趣旨で述べ、李斯が二世に『天子が放肆でなければ、天下は監獄のようだ』と教え、亡国を招いた故事を挙げた。曹叡は奏書を読み、中書監の劉放と中書令の孫資に「高堂隆の奏書を見て、朕は畏れを覚えた」と語った。
- 高堂隆が病重く、筆を執れなくなると、口述で奏書をまとめた。宮中の燕の巣に全身が艶やかな赤の怪鳥が見つかった吉凶を述べ、「鷹揚の臣(司馬懿を指すと解される)を防ぎ、諸王を要地に置いて朝廷を守らせるべきだ」と記したと伝わる。
- 曹叡は詔で「高堂隆の廉は伯夷に追い、直は史魚に過ぎる。小病で故郷へ帰ってはならない。邴吉や貢禹は病が癒えた。食を節し、よく養え」と励ました。まもなく没し、家族は遺言どおり、普段着で簡素に葬った。曹叡は「天は私の事を成させたくないのか。高堂生は私を捨てて逝った」と嘆いた。封禅の礼を、高堂隆に撰定させるつもりだったという。
- 盧毓は、高堂隆の直言について、「君が明らかなら臣は直ぐ。古の聖王は過ちを聞かないことを恐れた。近臣が規を尽くすことは、臣らが隆に及ばない所です。隆は諸生で、狂直と呼ばれます。陛下は容れてください」と述べた。陳寿は「学業が修まり、志は君を匡すことにあり、変に因んで戒を陳べ、恳誠から発した。忠なるかな」と評し、一方で「必ず正朔を改め、魏を舜に祖とさせようとしたのは、意が通を過ぎたもの」とも評した。
- 習鑿歯は「君が奢れば悪を諫め、将に死すとも社稷を忘れず、明戒は身後に験された。忠かつ智」と評した。王夫之は、曹叡の時代に宮殿・内寵・神仙を諫めた臣として、陳群・辛毗・蔣済、高堂隆・高柔・楊阜・杜恕・陳矯・衛覬・王粛・孫礼・衛臻らを挙げ、棺を叩いて死を待つ覚悟で直言した、とした。
- 高堂隆は、鄴宮の屋材に「若干年後、天子がこの宮殿に住む」と刻んでおいたと伝わる。のち晋の恵帝が鄴宮を訪れ、修理のために泥を剥がすと刻字が現れ、年数が符合した。文集10巻(6巻とも)と『張掖郡玄石図』1巻は失われたが、『全三国文』に奏疏が残る。子の高堂琛が関内侯を継いだ。
主な出典
『三国志』魏書 辛毗楊阜高堂隆伝(百度百科が引く本文)、裴松之注『魏略』、盧弼・王夫之の評、日本語版・英語版Wikipediaの記述
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
礼と制度を重んじ、暦や服色まで整えようとした行動から、規律は高めに置いています。
民の苦しみを理由に造営を諫め、病床でも国の先行きを案じて上疏した行動から、動機は他者寄りの側に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。