CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
馬騰
涼州に生きた、温厚な軍閥の長
馬騰は、字を寿成といい、後漢の名将・馬援の子孫とされる、涼州の軍閥です。母は羌の人で、貧しい中で育ち、山で木を切って城市で売って暮らしました。身長は八尺あまりで、温厚で賢明だったため、多くの人に慕われたといいます。184年の涼州の反乱で兵を挙げ、のち韓遂と義兄弟の契りを結びましたが、互いに攻め合い、妻子を殺されました。208年、張既の説得を受けて衛尉となり、鄴に移りますが、実質は人質でした。212年、子の馬超が挙兵すると連座して処刑され、三族も絶たれます。馬岱だけが逃れました。経歴は『三国志』蜀書 馬超伝、魏書 武帝紀・張既伝をもとにしています。
涼州の軍閥。韓遂と義兄弟の契りを結びながら争い、のち曹操のもとで衛尉となって鄴に移ったが、子の馬超の挙兵に連座して212年に処刑された。
THE WAY OF LIFE
馬騰の生き方
体も心も大きく、人を包み込む。馬騰は、堂々とした統率力と、温厚な人柄を併せ持つ人物像です。
貧しい出から、涼州の長にのぼりつめた。統率の高さと、構想の低さに、その人望と、駆け引きの不得手さを重ねています。
持ち味と、その裏側
身分を問わず人を引き寄せる人望と、前に立って兵を率いる統率力。一方で、政略には疎く、韓遂との争いや曹操への対応で、立場を危うくしました。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
?年〜建安17年(212年)
司隷右扶風茂陵県の人(涼州隴西郡で育つ)。字は寿成。後漢の名将・馬援の子孫とされ、母は羌の人。
- 父の馬平は、家が貧しく、羌の娘を妻とした。馬騰は貧しい中で育ち、山で木を切り、背負って城市で売って暮らした。
- 身長は八尺(約184cm)あまりで体格に優れ、顔立ちも雄々しく、温厚で賢明だったため、多くの人に慕われた。
- 184年、涼州刺史の耿鄙の募集に応じて、反乱の鎮圧に加わり、軍従事から軍司馬となった。187年、韓遂が耿鄙を殺すと、馬騰も韓遂らに加わり、三輔に攻め入った。
- 190年、董卓が長安に遷都すると、出仕して偏将軍となった。192年に董卓が暗殺されると、李傕・郭汜に従って征西将軍となり、郿県に駐屯した。
- 李傕と食糧をめぐって対立し、益州の劉焉と手を結んで長安を襲ったが、敗れて涼州へ退いた。
- 韓遂とは義兄弟の契りを結んでいたが、のち互いに攻め合い、馬騰は妻子を殺された。鍾繇・韋端の仲介で争いはおさまり、双方が子を人質として都へ送った。のち前将軍・仮節となり、槐里侯に封じられた。
- 202年、鍾繇の使者の張既に説得されて、郭援・高幹の討伐に協力し、子の馬超に1万あまりの兵をつけて送った。征南将軍に任じられ、開府を許された。
- 208年、張既の説得を受けて、衛尉となり、鄴に移った。実質的には曹操の人質だった。子の馬休は奉車都尉、馬鉄は騎都尉となった。
- 211年、馬超ら関中の諸将が、曹操の漢中攻めを疑って蜂起し、潼関で大敗した。212年1月に馬超が隴上で再び挙兵し、5月に、馬騰は連座して処刑され、三族も絶たれた。馬休・馬鉄も同じく処刑され、馬岱だけが逃れた。
- 『三国志演義』では、漢王朝への忠義の人として描かれる。黄奎らと曹操の暗殺を企てるが露見して殺され、これを聞いた馬超が挙兵する。
主な出典
『三国志』蜀書 馬超伝・魏書 武帝紀・張既伝・同注引『典略』、『三国志演義』
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:混沌・善
朝廷への帰順と反乱を、情勢に応じて繰り返した姿から、規律は裁量寄りとしています。
士人を厚く遇し、三輔の民からも敬われた姿から、動機は利他寄りに置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。