CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
馬隆
三千五百の募兵で、涼州を取り戻した叩き上げの将
馬隆は、西晋の武将です。もとは魏の兖州の武官で、王凌の乱のあと、死後二年の令狐愚が棺を開かれて三日さらされ、州の誰も葬ろうとしなかったとき、門客と称して遺骸を引き取り、私財で葬って三年の喪に服しました。晋の武帝が「誰か涼州を討つ者はいないか」と嘆くと、「臣に任せていただければ」と進み出て、三千五百人の勇士を自分で選んで西へ向かいます。偏箱車と磁石の道で、鮮卑の禿髪樹機能の万騎を退け、涼州を取り戻しました。経歴は『晋書』馬隆伝をもとにしています。
東平郡平陸県の人で、字は孝興。若いころから智勇があり、名節を好んだ。魏の兖州で、刺史だった令狐愚が罪に連座して誅され、州の誰も収める者がいなかったとき、武吏の馬隆は門客と称して遺骸を引き取り、私財で殯葬し、墓側に松柏を植え、三年の喪に服してから去った。一州の美談となり、武猛従事に署された。泰始年間、呉を討つため勇猛な人材を挙げよとの詔が出ると、兖州が馬隆を推挙し、司馬督に累遷した。278年、馬隆は、涼州刺史の楊欣は羌戎との和を失っており必ず敗れると述べ、そのとおり楊欣が討たれて河西との道が絶えた。武帝が「誰が私のために虜を討ち、涼州に通じてくれるのか」と嘆くと、馬隆は「陛下が臣を任じてくださるなら、臣に自ら任せていただきたい。勇士三千人を募り、鼓を鳴らして西へ向かいます」と進み出た。公卿は「六軍も州郡の兵も多いのに、募兵は常典を乱す」と反対したが、武帝は聞かず、馬隆を討虜護軍・武威太守とした。馬隆は、腰で引く弩三十六鈞、弓四鈞を標準として試験し、朝から昼までに三千五百人を得て「足りる」と言った。武庫の令に朽ちた魏の杖を渡されて争い、御史中丞に弾劾されたが、武帝は馬隆に従い、三年分の軍資も与えた。翌279年の正月に西へ出発し、温水を渡った。禿髪樹機能は万の兵で、険に拠って前を遮り、あるいは伏せて後ろを断った。馬隆は八陣図に依って偏箱車を作り、広い所では鹿角車営とし、狭い道では車の上に木屋を設けて、戦いながら進み、矢は弦に応じて当たった。道の両側に磁石を積み、鉄の鎧を着けた賊は進めず、犀の甲を着けた馬隆の兵は妨げられなかったので、賊は神だと思った。千里を転戦して数千を殺傷し、音信が絶えて朝廷は戦死したかと憂えたが、夜に使者が着くと、武帝は手を打って笑い、馬隆に仮節・宣威将軍を加えた。武威に着くと猝跋韓・且万能ら一万余落が降り、没骨能らとともに樹機能と大戦して斬り、涼州を平定した。太康の初め、平虜護軍・西平太守となり、荒れた西平に駐屯した。南虜の成奚が辺を侵すと、軍士に農具を背負わせ、田を耕すように見せて油断させ、備えのないところを破った。290年、奉高県侯・東羌校尉となり、隴右で十余年、威信が震った。略陽太守の厳舒が外戚楊駿と通婚して馬隆の職を狙い、「老いて耄碌した」と誹ったため召還されたが、氐・羌が集結して民が恐れたので、厳舒を免じて馬隆を復職させ、馬隆は在官のまま没した。兵書『八陣総述』『風后握奇経』を著した。
THE WAY OF LIFE
馬隆の生き方
魏の兖州。王凌の乱のあと、死後二年の令狐愚は、棺を開かれて三日さらされた。州の誰も近づかなかった。馬隆は一介の武吏の身で言った。「私は、令狐殿の門客です」。遺骸を引き取り、私財で葬り、墓の側に松と柏を植えて、三年喪に服した。州の人は、それを美談と呼んだ。
武帝は朝廷で嘆いた。「誰が私のために、この虜を討って涼州に通じてくれるのか」。群臣は誰も答えなかった。馬隆が進み出た。「陛下が臣を任じてくださるなら、臣に自ら任せていただきたい。勇士三千人を募り、鼓を鳴らして西へ向かいます」。公卿は言った。「小将の妄説です。聞いてはなりません」。武帝は聞かなかった。馬隆は弩を引かせ、昼までに三千五百人を得て言った。「足りる」。
道は狭く、賊は一万の騎兵で前を塞ぎ、後ろに伏せた。馬隆は車に木の屋根を載せ、戦いながら進んだ。道の両側に磁石を積むと、鉄の鎧の賊は進めず、犀の鎧の兵は通れた。賊は神だと思った。千里を戦って、音信は絶えた。誰もが、馬隆は死んだと言った。夜に使者が着くと、武帝は手を打って笑った。
持ち味と、その裏側
貧しい出から、胆力と、強弩を引く力、そして八陣図や磁石、農具を使った偽装まで、戦場で頭を使う力で道を切り開いた。三千五百人で千里を進み、涼州を取り戻して、十余年、西の辺境を守った。一方で、武庫の令と争い、朝廷の反対を押し切る強さは、敵も作る。最後は、老耄と誹られて職を奪われかけた。同じ頑固さが、功と讒言の両方を呼んだ人。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年不詳〜没年不詳(290年に奉高県侯・東羌校尉、在官のまま没す)
兖州東平郡平陸県の人。字は孝興。子に馬咸。
- 若いころから智勇があり、名節を好んだ。魏の時代、兖州の武官となった。
- 251年、王凌が反乱に失敗したあと、同謀とされた令狐愚は、死後二年なのに棺を開かれ、三日さらされた。兖州の誰も収葬しようとしなかったが、馬隆は武吏の身で門客と称し、遺骸を引き取って私財で葬り、墓の側に松柏を並べて植え、三年の服喪を終えてから戻った。一州の美談となり、武猛従事に署された。
- 泰始年間、呉の征伐のため、武帝は「壮勇秀異で才力の傑出した者を、州郡は名を挙げよ」と詔した。兖州は馬隆を「良将の才」として推挙し、馬隆は司馬督に累遷した。
- 278年、馬隆は、涼州刺史楊欣が羌戎との和を失っているから必ず敗れると述べた。まもなく楊欣は鮮卑の禿髪樹機能の与党に武威で討たれて殺され、河西との道が絶えた。武帝は西のことを憂え、朝廷で「誰が私のためにこの虜を討ち、涼州に通じてくれるのか」と嘆いたが、朝臣は誰も答えなかった。
- 馬隆は進み出て、「陛下が臣を任じてくださるなら、臣に自ら任せていただきたい。勇士三千人を、どこから来たかを問わず募り、鼓を鳴らして西へ向かえば、陛下の威徳によって、あの虜を滅ぼすのは難しくありません」と言った。武帝は許し、馬隆を武威太守(討虜護軍)に任じた。公卿は「六軍も州郡の兵も多いのだから、それを用いるべきで、横に賞募して常典を乱してはならない。小将の妄説だ」と反対したが、武帝は納れなかった。
- 馬隆は、腰で引く弩三十六鈞と、弓四鈞を引ける者を標準とし、標を立てて試験した。朝から昼までに三千五百人を得て、「足りる」と言った。自ら武庫で杖(武器)を選びたいと請うと、武庫の令と争いになり、御史中丞が馬隆を弾劾した。馬隆は「臣は戦場に命を捨てて恩に報いようとするのに、武庫の令は魏の時代の朽ちた杖を渡しました。使えず、陛下が臣に賊を滅ぼさせようとなさる意に反します」と言い、武帝は馬隆に従って、三年分の軍資も給した。
- 279年の正月、馬隆は西へ出発し、温水を渡った。禿髪樹機能は万を数える兵で、険に拠って前を遮り、あるいは伏せて後ろを断った。馬隆は八陣図に依って偏箱車を作り、地が広ければ鹿角車営とし、道が狭ければ車の上に木屋を設け、戦いながら進んだ。矢の届くかぎり、弦に応じて敵は倒れた。奇謀を折々に発して意表を突き、道の両側に磁石を積み上げたので、鉄の鎧を着けた賊は進めず、馬隆の兵はみな犀の甲を着ていて妨げられず、賊はみな神だと思った。千里を転戦し、殺傷は数千に及んだ。
- 馬隆が西へ行ってから音信が断たれ、朝廷は憂え、すでに戦死したと言う者もいた。のち馬隆の使者が夜に着くと、武帝は手を打って笑った。翌朝、群臣を召して言った。「諸卿の言うとおりにしていたら、秦も涼も無くなっていた」。詔して、「馬隆は少ない兵で奮い立ち、難を顧みず、険を冒して成し遂げた」と讃え、仮節・宣威将軍とし、赤幢・曲蓋・鼓吹を加えた。
- 馬隆が武威に着くと、鮮卑の大人猝跋韓・且万能ら一万余落が降った。前後に誅殺した者と降った者は、万を数えた。さらに友好的な戎の没骨能らとともに樹機能と大戦して斬り、涼州は平定された。朝廷では、馬隆の将士にはすでに高い爵を与えたから重ねて授けるべきでないとの議が出たが、衛将軍楊珧は「前に精募して少し爵命を加えたのは、人を誘うためだった。今、馬隆は全軍で独り克ち、西土は安んじた。前の授与でこの後の功を塞いではならない」と反駁し、将士にはそれぞれ爵と秩が差を付けて賜られた。
- 太康の初め、朝廷は荒れた西平を復興すべきだとして、馬隆を平虜護軍・西平太守とし、精兵と牙門一軍を与えて西平に駐屯させた。南虜の成奚がたびたび辺境の患いとなると、馬隆は軍を率いて討った。成奚は険に拠って守ったので、馬隆は軍士にみな農具を背負わせ、田を耕すように見せた。成奚は征討の意はないと思って備えを緩め、馬隆はその隙に進軍して破った。馬隆の治める間、成奚は二度と侵さなかった。
- 290年、奉高県侯に封じられ、東羌校尉を加えられた。隴右にあること十余年、威信は震った。略陽太守の厳舒は、外戚楊駿と通婚した縁で、密かに馬隆に代わろうとし、「年老いて耄碌し、戎を鎮めるにふさわしくない」と誹った。馬隆は召還され、厳舒が代わって鎮守した。すると氐・羌が集結し、百姓は驚き恐れた。朝廷は関隴が再び乱れることを恐れ、厳舒を免じて馬隆を職に復させ、馬隆は在官のまま没した。
- 著書に『八陣総述』と『風后握奇経』一巻がある。子の馬咸は成都王司馬穎に仕え、陸機が河北大都督を務めた303年の戦いで、鷹揚将軍として河橋の中洲に布陣し、長沙王司馬乂の部将王瑚に敗れて戦死した。のち陳頵は「馬隆・孟観は出自は貧賤だが、勲功は甚だ大きい」と評し、唐の太宗は「馬隆の西伐、王濬の南征は、師は時を延ばさず」と讃えた。
主な出典
『晋書』馬隆伝、『資治通鑑』巻八十。経歴は 百度百科「馬隆」の記述も参照しています。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:混沌・善
朝廷の反対にも、武庫の令との争いにも屈せず、自分で兵を選び、自分の策で戦い抜きました。決まった型や常典より、自分の判断を通した人として、規律は裁量寄りに置いています。
死者を葬ることも、三千五百の勇士を募って西へ向かうことも、自分の得にはならないことでした。令狐愚への義と、朝廷への奉公のために動いた人として、動機は利他寄りに置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。