CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
馬忠
南中を長く守った、威と恩を併せ持つ庲降都督
馬忠は、字を徳信といい、巴西郡閬中の人です。幼くして外祖父の家に養われ、狐篤の名で育ち、のち姓を戻して名を忠と改めました。章武2年(222年)、猇亭で敗れた劉備のもとへ兵を送ると、劉備は「黄権を失ったが、狐篤を得た」と称賛したと伝わります。建興3年(225年)に牂牁太守として朱褒の反乱を平定し、建興11年(233年)には庲降都督として夷族の首領・劉冑を討って、南中の統治を担いました。威と恩を併せ持つ統治で南中を長く守り、延熙12年(249年)、在任中に没して、子の馬脩が爵を継ぎます。経歴は『三国志』蜀書 黄李呂馬王張伝と『華陽国志』をもとにしています。
巴西郡阆中の人。字は徳信。幼くして外祖父の家に養われ、姓は狐、名は笃。後に姓を戻し、名を忠と改めた。郡吏を経て、建安末に孝廉に推挙され、汉昌県長となる。章武2年(222年)、猇亭で敗れた劉備のもとに兵を送り、「黄権を失ったが、狐笃を得た」と称賛された。建興11年、庲降都督として劉胄の反乱を討ち、南中の統治を担った。延熙12年(249年)、在任中に没し、子の馬脩が爵を継いだ。
THE WAY OF LIFE
馬忠の生き方
南中では、刘胄や朱褒の反乱を討つ一方、敗者を抚育し、民には恩を示した。陈寿は「威恩并立」「蛮夷畏而爱之」と評する。その統治が、武力の裏打ちの上に成り立っていたことも見ておく必要がある。
『三国志演義』では第87〜102回に登場し、南征や北伐の戦功が描かれる。「関羽を捕らえた」のは呉の馬忠(同名の別人)の事績で、蜀の馬忠のものではない。「黄忠を射た」も呉の馬忠に結びつけられた演義・民間の設定で、史書にはない。
持ち味と、その裏側
南中の夷族と漢人を、威と恩の両面で治めた統治力。蒋琬の東進策を止める政治的な判断も、実務に長けた人物像に合う。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年不詳〜249年(延熙12年)
巴西郡阆中(現在の四川省阆中)
- 生年不詳: 外祖父の家に養われ、狐笃の名で育つ。後に姓を戻し、名を忠と改める(『三国志』)。
- 建安末: 孝廉に推挙され、汉昌県長となる(『三国志』)。
- 222年(章武2年): 猇亭で敗れた劉備のもとへ兵を送る。劉備は「黄権を失ったが、狐笃を得た」と称賛(『三国志』)。
- 225年(建興3年): 牂牁太守として、郡丞の朱褒の反乱を平定し、民を撫恤する(『三国志』)。
- 231年(建興9年): 汶山の羌の反乱を討つ。張嶷を先鋒とする(『三国志』)。
- 233年(建興11年): 庲降都督として、張翼の後を継ぎ、夷族の首領・刘胄を討ち取る。治所を味県へ移す(『三国志』)。
- 242年(延熙5年): 成都に戻り、蒋琬に東進策の中止を伝える(『三国志』)。
- 244年(延熙7年): 曹爽の汉中侵攻に際し、成都で平尚書事を務める(『三国志』)。
- 249年(延熙12年): 在任中に没する。子の馬脩が爵を継ぐ(『三国志』)。
主な出典
『三国志』蜀書 黄李呂馬王張伝(裴松之注を含む)、『華陽国志』南中志。『三国志演義』第87〜102回(演義の戦功は脚色を含む)。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
規律4のため秩序。郡の治安を整え、軍中の事務と統治を安定させた。
夷族と漢人の双方を安んじ、威と恩を両立させることを重んじた。武力による討伐も行ったが、その目的は南中の安定と民の救済に置かれている。動機は善として扱います。ただし、討伐の苛烈さについては史料の記述を超えて評価しません。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。