CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
韓遂
涼州に長く割拠し、疑いに足元を崩された老雄
韓遂は、字を文約といい、涼州金城郡の人です。184年、涼州の羌族や盗賊らが反乱を起こすと、辺章らとともに擁立されました。馬騰とは義兄弟の契りを結びながら、涼州の支配をめぐって争ったと伝わります。211年、馬超らとともに関中で兵を挙げ、潼関で曹操と対峙しますが、曹操は韓遂と二人で語り合ったのち、韓遂に送る書状の文字を墨で塗りつぶして、馬超の疑いを誘いました。この離間の計は賈詡の策とされ、連合軍は崩れます。215年、部下の麹演・蒋石に殺され、首は曹操に届けられました。経歴は『三国志』魏書 武帝紀・賈詡伝と『典略』をもとにしています。
涼州の軍閥。馬騰と義兄弟から争い、のち馬超らと曹操に挑んだが、離間の計で崩れ、最後は部下に殺された。
THE WAY OF LIFE
韓遂の生き方
相手の腹の内を読み、距離を保つ。韓遂は、現実的な構想力と、機を見て組む相手を替える大胆さを併せ持つ人物像です。
信じ切らず、疑いも手放さない。信条の低さと挑戦の高さに、その渡り歩く強さと危うさを重ねています。
持ち味と、その裏側
情勢を見て、組む相手と距離を使い分ける現実的な判断力と、辺境で長く勢力を保つ粘り強さ。一方で、疑いが先に立って味方との信頼を保てず、肝心なときに足並みが乱れます。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
?年〜建安20年(215年)
涼州金城郡の人。字は文約。もとの名は韓約。
- 184年、涼州の羌族や盗賊らが反乱を起こすと、辺章(辺允)らとともに擁立された。このとき、韓約から韓遂に改名したと伝わる。
- 董卓の死後は、李傕・郭汜の政権から鎮西将軍に任じられた。馬騰とは義兄弟の契りを結んだが、涼州の支配をめぐって争い、韓遂が馬騰の妻子を殺したとも伝わる。
- 211年、曹操が張魯の討伐に向かうと、馬超らとともに関中で兵を挙げ、潼関で曹操と対峙した。
- 曹操は韓遂と二人で語り合ったのち、韓遂に送る書状の文字を墨で塗りつぶして、馬超の疑いを誘った。馬超との仲が裂けた連合軍は崩れた。この離間の計は、賈詡の策とされる。
- 214年、夏侯淵に敗れて西平・金城へ逃れた。215年、部下の麹演・蒋石に殺され、首は曹操に届けられた。享年は70あまりとされる。
- 『三国志演義』では、馬超の同盟者として配下の八部の将を率いて曹操に挑み、離間の計に敗れたのち、曹操に降って関内侯に封じられる。
主な出典
『三国志』魏書 武帝紀・賈詡伝・董卓伝注引『典略』、『三国志演義』
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:混沌・悪
朝廷の筋より、自分の勢力と判断を優先して動く姿から、規律は裁量寄りとしています。
自分の勢力と地盤を守る動きが目立つため、動機は個人寄りに置いています。善悪を断定するものではありません。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。