CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
韋昭
『呉書』を書き、酒の代わりに茶を賜った呉の史官
韋昭は、呉の史官です。『呉書』の編纂を四十年近く続け、陳寿の『三国志』呉書の多くはこの書に拠っています。孫皓の宴では一日中、七升の酒を強いられるなか、酒に弱い韋昭には初め茶がこっそり与えられました。「以茶代酒」の語源です。やがて孫皓の父を「紀」に書けという求めを「帝位に即いていないから伝」と退け、吉兆の報告を「人の箱の中の物にすぎない」と斬って、七十歳で獄に下され殺されました。経歴は『三国志』呉書「韋曜伝」をもとにしています。
呉郡雲陽の人で、字は弘嗣。本名は昭、『三国志』は晋の司馬昭の諱を避けて曜と記す。若くして学問を好み文章に長け、太子孫和に命じられて囲碁を戒める『博弈論』を書いた。諸葛恪の推挙で太史令となり『呉書』を撰し、孫休のもとでは劉向にならって書籍を校定した。孫皓が即位すると中書僕射・侍中となり左国史を領したが、父孫和を「紀」にせよという求めを「伝」と譲らず、吉兆の報告を「人の箱の中の物」と退けて疎まれた。宴で七升の酒を強いられ、初めは茶を賜ったが、寵が衰えると飲めないことを罪とされた。273年、獄に下されて殺された。七十歳。『国語注』は今も伝わる。
THE WAY OF LIFE
韋昭の生き方
孫皓の宴は一日中続き、酒量にかかわらず七升を飲まされた。韋昭は二升も飲めない。初めのうち孫皓は、こっそり茶を渡して酒の代わりにさせた。寵が衰えると、同じ飲めなさが罪になった。「以茶代酒」という言葉の、元の話です。
孫皓は父の孫和を皇帝として「紀」に書けと言った。韋昭は答えた。「帝位に即いておられないので、伝とすべきです」。周りが吉兆だと騒ぐものを問われれば、「人の家の箱の中の物にすぎません」。史官としては正しく、臣としては危うい答えを、何度も繰り返した。
獄の中から赦免を願う上書をした。孫皓は内容ではなく、紙に墨の汚れがあることを咎めた。華覈が何度も助命を上奏したが、聞かれなかった。七十歳。四十年近く書き続けた『呉書』は完成を見なかったが、陳寿がそれを土台に呉の歴史を書いた。
持ち味と、その裏側
四十年にわたって史料を集め、書き続けた持続力と、君主の前でも記録の筋を曲げない正しさ。『国語』の注は後世まで残る学問の力。一方で、その譲らなさが暴君の疑いを呼び、身を守ることができなかった。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
204年〜273年(享年70)
揚州呉郡雲陽県の人。字は弘嗣。本名は昭。
- 204年、呉郡雲陽に生まれた。本名は昭。『三国志』が曜と記すのは晋の文帝司馬昭の諱を避けたためだが、張昭など他の「昭」は避けていないので、曜は本人の別名だったとも考えられている。
- 若くして学問を好み、文章に長けた。丞相の掾から西安県令に出て、尚書郎、太子中庶子となった。東宮で同僚の蔡穎が囲碁を好んだため、太子孫和は益がないとして韋昭に『博弈論』を書かせた。
- 孫和が廃されると黄門侍郎となった。孫亮が即位して諸葛恪が輔政すると、太史令に推挙されて『呉書』の撰述を始め、華覈・薛瑩らがこれに加わった。
- 孫休が即位すると中書郎・博士祭酒となり、劉向の故事にならって諸書を校定した。孫休は韋昭を侍講にしようとしたが、側近の張布が、古今の例で君主を戒めかねない学者を恐れて反対し、実現しなかった。孫休は張布を深く恨んだという。
- 孫皓が即位すると高陵亭侯に封じられ、中書僕射、のち侍中となり、左国史を領した。周囲がしきりに吉兆を言上するのを孫皓が問うと、「人の家の箱の中の物にすぎません」と答えた。孫皓が父の孫和を「紀」に書かせようとすると、帝位に即いていないので「伝」とすべきだと譲らなかった。こうしたことが重なり、次第に責められた。
- 韋昭は老衰を理由に侍中・左国史の二官を辞し、『呉書』を完成させたいと願ったが、孫皓は許さなかった。病があり、医薬の監護も厳しくなった。
- 孫皓の宴は一日中続き、列席者は酒量にかかわらず七升を限度とされ、飲み切れなくても注ぎ込まれた。韋昭は二升も飲めない。礼遇されていた初めのころは量を減らされ、密かに茶を賜って酒に代えた。寵が衰えると逆に強いられ、飲めないことを罪とされた。孫皓は酒後に侍臣に公卿を難詰させ、私事をあばいて楽しんだが、韋昭は「外で傷つけ合えば内に恨みが育つ」として、経義の問いを出すにとどめた。孫皓はこれを詔命に従わぬ不忠とみなした。
- 273年(鳳凰2年)、獄に下された。獄中から上書して赦免を願ったが、孫皓は紙の墨の汚れを咎めた。華覈が重ねて上疏して救おうとしたが許されず、殺された。七十歳。家族は零陵に流された。息子の韋隆は都で遺体を引き取ることができず、衣冠墓を築いて隠れ住み、呉が滅んだ280年に建業で遺骨を収めて郷里に葬った。
- 著書に『呉書』(華覈・薛瑩らと合撰)、『国語注』『漢書音義』『官職訓』『三呉郡国志』など。『国語注』は今日まで伝わる。陳寿は「学問に篤く古を好み、群籍を博く見て、記述の才があった」と評し、唐の劉知幾は、権力を恐れずに書いた史家として南史・董狐と並べて称えた。
主な出典
『三国志』呉書「韋曜伝」(王楼賀韋華伝)、裴松之注。経歴は Wikipedia・百度百科「韋昭」の記述も参照しています。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
史官として「帝位に即いていない者は紀にしない」という筋を守り、宴席で臣下同士を罵らせる命にも従わなかったことから、規律は秩序に置いています。
史官として、君主の父を「紀」に書けという求めを退け、吉兆の報告を否定し続けました。自分の身を守るなら従えばよかったことを、記録の正しさのために拒んだ人として、動機は利他寄りに置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。