CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
霍峻
一年にわたり城を守り抜いた、劉備の忠臣
霍峻は、字を仲邈といい、荊州南郡枝江県の人です。兄の霍篤が亡くなると、劉表の命でその私兵を継ぎ、208年に劉表が亡くなると劉備に仕えました。212年の劉備の入蜀では、広漢郡の葭萌城の守備を命じられ、張魯の配下から寝返りを誘われてもこれを拒みます。のち劉璋軍の扶禁・向存ら1万あまりに城を囲まれましたが、一年にわたって守り抜いたと伝わります。217年に梓潼太守となり、219年に在職中に亡くなりました。劉備はその死を深く悲しみ、葬儀の際は墓のそばに泊まったといいます。子の霍弋は、のち蜀の南方を守る将となりました。経歴は『三国志』蜀書 霍峻伝をもとにしています。
劉備の入蜀で葭萌城を預かり、劉璋軍の包囲に一年耐えた。梓潼太守となったが、40歳で亡くなった。
THE WAY OF LIFE
霍峻の生き方
持ち場を離れず、守ると決めたら守り抜く。霍峻は、揺るがない忠義と、粘り強い守備力を併せ持つ人物像です。
派手な勝利より、耐え抜く強さで知られる。規律と信条の高さに、その堅さを重ねています。
持ち味と、その裏側
誘いにも包囲にも動じない粘り強さと、少ない兵で城を守る工夫。一方で、守りに徹する場面が多く、攻めの大きな功績は記録に残りませんでした。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
180年〜建安24年(219年)
荊州南郡枝江県の人。字は仲邈。子に霍弋。
- 兄の霍篤が亡くなると、劉表の命で、兄の私兵を継いだ。
- 208年に劉表が亡くなると、劉備に仕えて中郎将となった。
- 212年、劉備の入蜀に際して、広漢郡の葭萌城の守備を命じられた。張魯の配下から寝返りを誘われたが、これを拒んだ。
- のち、劉璋軍の扶禁・向存ら1万あまりに城を囲まれたが、一年にわたって守り抜いた。城外へ出撃して、敵将を破ったとも伝わる。
- 217年、梓潼太守・裨将軍に任じられた。
- 219年、在職中に亡くなり、成都に葬られた。劉備はその死を深く悲しみ、葬儀の際は墓のそばに泊まったという。子の霍弋は、のち蜀の南方を守る将となった。
- 『三国志演義』では、孟達とともに葭萌関を守る将として登場し、張郃の襲来には籠城を主張する。
主な出典
『三国志』蜀書 霍峻伝、『三国志演義』
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
与えられた城を、誘いにも包囲にも屈せず守り通した姿から、規律は秩序寄りとしています。
劉備への忠義と、城の兵と民を守る責任から、動機は善寄りに置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。