CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
陸績
六十年後の天下統一を言い残した、呉の学者太守
陸績は、呉郡陸氏の学者です。六歳で袁術の席から橘を懐に入れ「母に持ち帰りたい」と答えた『懐橘』の子として知られ、長じては孫権に直言を重ねたために遠く鬱林の太守に出されました。足が不自由で、戦よりも星と暦と『易』を好み、任地で『渾天図』を作り『易』に注をつけ、死の前に「六十年ののち、車は軌を同じくし、書は文を同じくするだろう。それを見られないのが恨みだ」と書き残して、三十二歳で没しました。経歴は『三国志』呉書「陸績伝」をもとにしています。
呉郡呉県の人で、字は公紀。廬江太守・陸康の子。六歳で袁術の前で橘を懐に入れ、母に持ち帰りたいと答えた。孫策が江東を取ると、張昭らが武力による平定を論じる席の末座から「管仲は兵車を用いずに天下を正した」と声を上げ、人々を驚かせた。孫権に仕えて奏曹掾となったが、直言を重ねて疎まれ、鬱林太守・偏将軍として南に出された。足が不自由で、学問こそ本分だと自ら思い、任地でも著述をやめず、『易』に注をつけ『渾天図』を作った。死期を悟って自ら辞を書き、「六十年ののち、車同軌、書同文。見られないのが恨みだ」と記して、219年に三十二歳で没した。
THE WAY OF LIFE
陸績の生き方
六歳のとき、袁術の前で橘を三つ懐に入れた。拝礼したら転がり落ちて、「客として来て橘を懐に入れるのか」と笑われた。「母に持ち帰りたいのです」。袁術は、この子を大いに奇とした。『二十四孝』に数えられる話です。
大人たちが武力で天下を平らげる話をしている席の、いちばん端から、少年の声がした。「管仲は兵車を使わずに天下を正しました。遠くの人が服さないなら、文徳を修めて来させる、と孔子は言っています」。張昭たちは、この子を異とした。
孫権に直言を重ねて、遠い鬱林に出された。それでも筆は置かなかった。南の官舎で星図を広げ、『易』を注し、死ぬ前に書いた。「六十年ののち、車は軌を同じくし、書は文を同じくする。それを見られないのが、恨みだ」。晋の天下統一は、280年。言葉どおり、ほぼ六十年後でした。
持ち味と、その裏側
星と暦と算術と『易』に通じ、大きな時間の流れを読む目。目上にも臆せず筋を通す率直さ。一方で、その直言が孫権に疎まれ、学者としての本分から遠い任地に出される原因にもなった。『三国志』の評は「瑚璉の器に南越の守をさせたのは、人を損なうことだ」と孫権を批判している。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
188年〜219年(享年32)
揚州呉郡呉県の人。字は公紀。廬江太守・陸康の子。
- 188年、呉郡呉県に生まれた。父は廬江太守の陸康。従祖父にあたる陸康のもとに身を寄せていた陸遜は陸績より数歳年長で、幼い陸績に代わって一門を取りまとめた。
- 六歳のとき、九江で袁術に会った。袁術が橘を出すと、陸績は三つを懐に入れ、辞去の拝礼で地に落とした。袁術が「陸郎は客として来て橘を懐にするのか」と言うと、跪いて「帰って母に差し上げたいのです」と答え、袁術は大いに奇とした。
- 孫策が江東を取ったのち、呉郡で張昭・張紘・秦松らが上客として「四海はまだ泰平でなく、武功で平定すべきだ」と論じた。陸績は年少で同席できず、遠くから声を上げた。「昔、管仲は斉の桓公を補佐して諸侯を九たび合わせ、天下を正したが、兵車は用いなかった。孔子は『遠人が服さなければ文徳を修めて来させる』と言った。いま論者は道徳で懐けることを務めず、武ばかりを尚んでいる。私は童蒙ですが、心安らかではありません」。張昭らは、これを異とした。
- 孫策が没して孫権が継ぐと、奏曹掾に辟された。孫権にたびたび直言したため疎まれ、鬱林太守に転じ、偏将軍を加えられ、兵二千を与えられた。足に病があり、学問の人であって、官は本来の志ではなかった。
- 軍事にも加わったが著述はやめず、『易』に注をつけ、『渾天図』を作った。虞翻や龐統と親しく、龐統は「陸子は駑馬だが逸足の力がある」と評した。年齢も土地も越えて交わった。
- 死期を悟ると自ら辞を書いた。「漢の志士、呉郡の陸績。幼くして詩・書を敦くし、長じて礼・易を玩び、命を受けて南征し、病に遭って厄に遇い、命の不幸に遭った。ああ、悲しいかな」。続けて「今より去ること六十年ののち、車は軌を同じくし、書は文を同じくするだろう。それに及ばないのが恨みだ」と記した。晋が呉を平らげて天下を統一したのは280年である。
- 219年、鬱林で没した。三十二歳。鬱林で生まれた娘は郁生と名づけられ、張温の弟・張白に嫁いだ。長子の陸宏は会稽南部都尉、次子の陸叡は長水校尉に至った。
- 『三国志』の評は言う。「陸績が『太玄』を扱ったのは、孔子における左丘明、老子における荘周のようなものだ。瑚璉の器をもって南越の守をさせたのは、人を損なうことではないか」。孫権が陸績を遠ざけたことへの批判である。
- 後世、鬱林太守を辞めて帰るとき荷物がなく、舟が軽すぎて海を渡れないので大石を一つ積んで帰ったという『廉石』の伝説が生まれた。『三国志演義』第43回では、諸葛亮の舌戦で劉備の出自を問う一人として現れ、「袁術の席で橘を懐にした陸郎か」と逆に言い返されて言葉に詰まる。演義での役回りは物語の脚色である。
主な出典
『三国志』呉書「陸績伝」(虞陸張駱陸吾朱伝)、裴松之注、『二十四孝』、『三国志演義』第43回。経歴は Wikipedia「陸績」の記述も参照しています。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
文徳と礼を重んじ、学問を本分として生きたことから、規律は秩序寄りに置いています。ただし君主に逆らってでも直言を続けたので、秩序一辺倒ではありません。
六歳で橘を母のために懐に入れ、成人しては孫権に疎まれると分かっていて直言を続けました。自分の得にならないことを、母のため、国のために選び続けた人として、動機は利他寄りに置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。