CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
陸機
呉の名門に生まれ、最期に故郷の鶴の声を思った文人
陸機は、呉の丞相・陸遜の孫、大司馬・陸抗の子です。二十歳で呉が滅び、十年あまり故郷で閉門して学び、『辨亡論』で祖父と父の功を書きました。弟の陸雲と洛陽に入ると張華に認められ、「二陸入洛、三張減価」と言われるほど名を上げます。のち成都王司馬穎に身を寄せ、河北大都督として二十万の軍を率いましたが、河橋の戦いで長沙王司馬乂に大敗し、宦官孟玖の讒言で処刑されました。臨刑の言葉は「華亭の鶴の声は、もう聞くことができようか」。経歴は『晋書』陸機伝をもとにしています。
呉郡呉県の人(横山の生まれ)で、字は士衡。陸遜の孫、陸抗の第四子。身長は七尺、声は鐘のようだったと伝わる。274年に父が死ぬと、兄の陸晏・陸景・陸玄、弟の陸雲とともに父の軍を分けて率い、牙門将となった。280年、二十歳で呉が滅ぶと郷里に退き、閉門して勉学すること十年あまり、288年に『辨亡論』を著して、孫権が天下を得た理由と孫皓が失った理由を論じた。289年に陸雲と洛陽へ上り、名士の張華を訪ねて厚く遇され、「呉を伐って二人の俊士を得た」と諸公に推されて、「二陸入洛、三張減価」と言われた。のち太傅楊駿の祭酒、太子洗馬、著作郎となり、外戚の賈謐と親しんで「二十四友」の一人に数えられ、そのことを人に譏られた。呉王司馬晏の郎中令、尚書中兵郎、殿中郎を経て、300年に趙王司馬倫の相国参軍となり、賈謐討伐の功で関中侯を賜った。301年に司馬倫が倒れると、斉王司馬冏に、中書郎として詔の文に関わったと疑われて捕らえられ、成都王司馬穎と呉王司馬晏の救援で死刑を免れた。顧栄・戴淵らが江南への帰郷を勧めたが、才能と声望を恃み、世の難を匡す志から従わなかった。その後は救ってくれた司馬穎に身を寄せ、平原内史となって「陸平原」と呼ばれる。303年、司馬穎が長沙王司馬乂を討つにあたり、後将軍・河北大都督として王粹・牽秀ら二十万余の軍を任された。三代にわたる将の家は忌まれるとして辞退を重ねたが、許されなかった。出陣のとき軍旗が折れ、陸機は心に嫌な思いを抱いた。朝歌から河橋まで鼓の音が数百里に響き、漢魏以来の盛大な出兵と言われたが、鹿苑で司馬乂に大敗し、七里澗に赴いて死んだ兵は薪を積んだようで、澗水が流れなくなった。小都督の孟超が略奪を放任したのを陸機が取り締まると、孟超は「貉奴が都督など務まるか」と罵り、陸機を謀反と誣告し、宦官の孟玖も讒言した。司馬穎に命じられた牽秀に捕らえられ、白帢をつけて対面し、「今日殺されるのは、命ではないか」と言って処刑された。四十三歳。子の陸蔚・陸夏、のち弟の陸雲・陸耽も殺された。書は『平復帖』が現存最古の名人真跡、文は『文賦』が代表作で、「太康之英」「潘江陸海」と称された。
THE WAY OF LIFE
陸機の生き方
二十歳で、国が滅んだ。祖父は丞相、父は大司馬。名門の末の子は、故郷に閉じこもって十年、学んだ。洛陽に出て張華に会うと、一目で旧知のように打ち解けた。張華は諸公に言った。「呉を伐って、二人の俊士を得た」。その張華は陸機に言った。「人は才が少ないのを恨むが、君はむしろ才が多すぎることを心配する」。
三代続く将の家は、忌まれる。そう言って都督の辞退を重ねたが、許されなかった。司馬穎は言った。「成功すれば郡公、台司の職だ。将軍、励まれよ」。陸機は答えた。「昔、斉の桓公は管仲を信じて九合の功を立て、燕の恵王は楽毅を疑って成るべき業を失いました。今日のことは、あなたにあって、私にはありません」。出陣のとき、軍旗が折れた。それでも朝歌から河橋まで、鼓の音は数百里に響いた。
夜、黒い車の帷が車に巻きつく夢を見た。手で引き裂いても解けなかった。夜が明けると、牽秀の軍が着いた。戎衣を脱ぎ、白帢をつけて、神色自若で会った。「成都王は私に重任を預けた。辞退したが許されなかった。今日殺されるのも、命ではないか」。司馬穎に書を書いた。言葉はひどく悲しかった。刑場で、陸機は言った。「華亭の鶴の声は、もう聞くことができようか」。
持ち味と、その裏側
名門の誇りと、陸遜・陸抗の血を引く自負、それに文・書・史を兼ねる抜きん出た才能。『文賦』『辨亡論』『平復帖』を残し、後世は「百代文宗」とまで称えた。一方で、文才の人が二十万の軍の都督になるという重さに、周囲の怨みを抑える術を持たなかった。唐の太宗は「智は言に及ばない」と評し、宋の何去非は、孟超を罰せずに許した将としての甘さを突いた。長所と短所が、同じ誇りから出ている人。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
261年〜303年(享年43)
揚州呉郡呉県の人(横山の生まれ)。字は士衡。呉の丞相・陸遜の孫、大司馬・陸抗の第四子。弟に陸雲。
- 261年、呉郡の名門陸氏に生まれた。祖父は丞相の陸遜、父は大司馬の陸抗。身長は七尺、声は鐘のようだった。若くして奇才があり、文章は世に抜きん出て、儒学を尊び、礼に外れた振る舞いをしなかった。
- 274年、父の陸抗が没し、陸機は兄の陸晏・陸景・陸玄、弟の陸雲とともに父の軍を分けて率い、牙門将となった。
- 280年、二十歳で呉が滅んだ。郷里に退いて閉門し、勉学に努めること十年あまり。祖父と父が将相として大功を立てたのに、孫皓がそれを捨ててしまったことを深く嘆いた。孫権が天下を得た理由と孫皓が失った理由を論じ、祖父と父の功業を述べた『辨亡論』上下二篇を、288年に著した。
- 289年、陸雲とともに洛陽へ上った。はじめは志気が高く、江南の名族として中原の人士を重んじず、名士の張華だけを訪ねた。張華はかねて陸機の名を重んじており、会うとすぐ旧知のように打ち解け、陸機は師の礼で接した。張華は「呉を伐って二人の俊士を得た」と諸公に推薦し、「二陸入洛、三張減価」と言われた。のち張華が殺されると、陸機は誄を作り、『詠徳賦』で悼んだ。
- 290年、太傅楊駿が祭酒に召した。291年、賈南風が政変で楊駿を殺した。292年、太子洗馬、著作郎となった。外戚の賈謐と親しく、「金谷二十四友」の一人となって、人に譏られた。294年、呉王司馬晏が淮南に出ると郎中令に任じられ、296年に尚書中兵郎、297年に殿中郎、298年に著作郎に戻った。
- 300年、趙王司馬倫が政変で賈后を殺して輔政すると、陸機は相国参軍となり、賈謐討伐の功で関中侯を賜った。司馬倫が帝位を奪おうとすると、中書郎に任じられた。301年、三王(斉王司馬冏・河間王司馬顒・成都王司馬穎)が司馬倫を倒すと、司馬冏は、陸機が中書郎の職にあったことから、司馬倫への九錫と恵帝の禅譲の詔の文に関わったと疑い、陸機ら九人を捕らえて廷尉に送った。成都王司馬穎と呉王司馬晏が救援に努め、陸機は死刑を減じられて辺地への流刑となり、恩赦で行かずにすんだ。
- 中原が多難ななか、顧栄・戴淵ら江南の名士は帰郷を勧めたが、陸機は才能と声望を恃み、世の難を匡す志があって従わなかった。司馬冏が功を誇って位を受けて譲らないのを嫌い、『豪士賦』で風刺した。司馬冏は気づかず、のち敗れて殺された。政治では封建(分封)の実施を主張し、『五等論』を著した。
- 司馬穎は功を譲って自ら誇らず、下士を労っていた。陸機は命を救われた恩に感じ、朝廷にたびたび変事が起きるなかで、司馬穎が晋室を興すと考えて身を寄せた。司馬穎は大将軍参軍事とし、平原内史に任じた。のち「陸平原」と呼ばれる。
- 303年、司馬穎が河間王司馬顒とともに長沙王司馬乂を討つにあたり、陸機を後将軍・河北大都督とし、北中郎将王粹・冠軍将軍牽秀らの各軍二十万余を率いさせた。陸機は、三代の将の家は忌まれること、客居の身で群士の上に立てば王粹・牽秀らの怨みを招くことを理由に、都督の辞退を強く請うたが、司馬穎は許さなかった。同郷の孫恵が王粹に譲るよう勧めると、「それは私が躊躇して賊を避けるということで、かえって禍を招く」と答えて就任した。司馬穎が「成功すれば郡公、台司の職だ」と励ますと、「昔、斉の桓公は管仲を信じて九合の功を立て、燕の恵王は楽毅を疑って成るべき業を失いました。今日のことは、あなたにあって私にはありません」と答えた。司馬穎の左長史盧志は陸機の寵遇を妬み、「陸機は自分を管仲・楽毅に比べ、あなたを暗君に例えました。古来、臣が君を侮って事を成した例はありません」と讒言し、司馬穎は黙った。
- 出陣の初め、軍旗が折れ、陸機は心に嫌な思いを抱いた。朝歌から河橋まで、鼓の音は数百里に響き、漢魏以来これほど盛大な出兵はなかった。しかし鹿苑で、長沙王司馬乂が恵帝を奉じて戦うと、陸機軍は大敗した。七里澗に赴いて死んだ兵は薪を積んだようで、澗水はそのために流れなくなり、将軍の賈棱も戦死した。
- これより前、宦官の孟玖と弟の孟超は、司馬穎に寵愛されていた。孟超は一万を率いる小都督となったが、戦う前に兵の略奪を放任した。陸機が主犯を捕らえると、孟超は鉄騎百余を連れて陸機の麾下に押し入ってその者を奪い、陸機に向かって「貉奴(北の者が南の者を蔑む呼び名)が都督など務まるか」と言い放った。司馬の孫拯は孟超を斬るよう勧めたが、陸機は聞かなかった。孟超は人前で「陸機は謀反を起こす」と言い、孟玖に宛てて、陸機は二心を抱き、決戦を急がないと誣告した。その後、孟超は陸機の指揮を受けず、独りで進軍して全滅した。孟玖は陸機が殺したと疑って司馬穎に讒言し、将軍の王闡・郝昌・公師藩らも孟玖に使われ、牽秀らとともに陸機の異心を証言した。司馬穎は大いに怒り、牽秀に陸機を密かに捕らえさせた。
- その夜、陸機は黒い車の帷が車に巻きつく夢を見た。手で引き裂いても解けなかった。夜が明けると牽秀の軍が着いた。陸機は戎衣を脱ぎ、白帢をつけて、神色自若で牽秀に会い、「呉が滅びてから、私たち兄弟と宗族は大晋の重恩を受け、朝廷に入っては帷幄に侍り、符を割いて兵を率いた。成都王は私に重任を預けた。辞退したが許されなかった。今日殺されるのは、命ではないか」と言い、司馬穎に書を書いた。言葉はひどく悲しかった。刑に臨んで「華亭の鶴の声は、もう聞くことができようか」と嘆き、軍中で殺された。四十三歳。子の陸蔚・陸夏も殺され、弟の陸雲・陸耽もあとで殺された。死は罪に当たらず、将士は深く痛んで、みな涙を流したという。この日、昼に霧が立ちこめ、大風が木を折り、平地に雪が一尺積もったといい、議論する人々は、陸機の冤死の兆しだと語った。
- 陸機が殺されたあと、友人の紀瞻が陸家を援助し、行き届いた世話をした。詩は107首、文は127篇が伝わる。『文賦』『辨亡論』『演連珠』が代表作で、書では章草の『平復帖』が、現存する最古の名人真跡とされる。文は音律が整い、対句と典故が多く、騈文の先がけとなった。潘岳とともに「潘江陸海」と称され、唐の太宗は『晋書』の論で「百代文宗、一人のみ」と讃えるとともに、「華亭の鶴は、悔いて後に聞こえた」と、その進退の誤りを惜しんだ。臨刑の「華亭鶴唳」は、仕途の険しさを嘆く故事になった。
主な出典
『晋書』陸機伝、『世説新語』。経歴は 百度百科「陸機」の記述も参照しています。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・中立
三代の将の家として臣の節を重んじ、都督の辞退が許されないと、それでも任に就きました。権力者の間を渡った面もありますが、命令には従う人として、規律は秩序寄りに置いています。
命を救ってくれた司馬穎への恩に報いようとし、同時に世の乱を匡して家名を保ちたいと願いました。賈謐や司馬倫に近づいた保身、恩人への忠義、江南の名門としての誇りが混ざっていて、動機は一方に定めがたい人として、中立に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。