CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
陸凱
暴君に命がけで直言した、呉の硬骨の老臣
陸凱は、字を敬風といい、揚州呉郡呉県の人で、陸遜と同族の世代にあたります。黄武年間に県令や太守を歴任し、赤烏年間には儋耳太守として反乱を鎮めました。孫晧が即位すると、鎮西大将軍・荊州牧となり、宝鼎元年(266年)に左丞相となります。孫晧が武昌への遷都や暴政を進めると、言葉を尽くして諫め、側近の何定の専横を面と向かって罵ったといいます。建衡元年(269年)、72歳で亡くなる際にも、小人を遠ざけ、陸抗らを用いるよう孫晧に伝えたとされます。陳寿は、「男らしくまっすぐで、節操をつらぬいた」と評しました。経歴は『三国志』呉書 陸凱伝・孫晧伝をもとにしています。
呉の臣。陸遜と同族の世代にあたり、孫皓の時代に左丞相を務めた。遷都や暴政、側近の専横を、たびたび面と向かって諫め、269年に72歳で亡くなった。
THE WAY OF LIFE
陸凱の生き方
相手が君主でも、言うべきことは言う。陸凱は、曲がらない信条と、率直な語り口を併せ持つ人物像です。
国の傾きを、黙って見ていなかった。信条と表現の高さに、その節操と、言葉を尽くす直言を重ねています。
持ち味と、その裏側
相手が君主でも怯まず直言する、節操の強さと胆力。一方で、人心の離れた孫皓を、言葉だけで変えることはできず、廃立の計画に加わろうとしたこともあり、力で動かす手立てには欠けていました。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
建安2年(197年)〜建衡元年(269年)
揚州呉郡呉県の人。字は敬風。陸遜と同族で、子の世代にあたるが、系図上の関係は不明。
- 呉郡の陸氏の出身。黄武年間に県令や太守を歴任し、建武都尉となって軍権を預かった。
- 赤烏年間、儋耳太守となり、将軍の聶友と遠征して反乱を鎮め、建武校尉に進んだ。赤烏13年(250年)には、魏の王昶が南郡へ侵攻すると、朱績の救援に向かった。
- 五鳳2年(255年)、零陵の山越の反乱を討ち、巴丘督・偏将軍・都郷侯となった。孫休の時代には、征北将軍・豫州牧となった。
- 孫晧が即位すると、鎮西大将軍・巴丘督・荊州牧となり、嘉興侯に進んだ。
- 甘露元年(265年)、晋が興ると、丁忠と劉纂が弋陽の奪取を勧めたが、陸凱は孫晧に反対を諫めた。
- 宝鼎元年(266年)、左丞相となった。孫晧の廃立を図る計画に加わったが、左将軍の留平に反対されて、実行しなかった。
- 孫晧が武昌への遷都や暴政を進めると、言葉を尽くして諫め、側近の何定の専横を、面と向かって罵ったという。
- 建衡元年(269年)、72歳で亡くなった。臨終に際し、何定や奚熙のような小人を遠ざけ、姚信・楼玄・賀邵・張悌・薛瑩・滕脩・陸喜・陸抗らを用いるよう、孫晧に伝えたとされる。孫晧の政治を厳しく批判した、二十箇条の長い上奏が伝わるが、信憑性には疑義がある。
- 陳寿は、陸凱を「男らしくまっすぐで、節操をつらぬいた」と評した。孫晧は、陸抗の死後、陸凱の家族を交州へ移して報復したとされる。
主な出典
『三国志』呉書 陸凱伝・孫晧伝、同注引『呉録』『江表伝』
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
国の筋と、臣としてのあるべき姿に沿って動く姿から、規律は秩序寄りとしています。
国の行く末を思い、君主に逆らってでも直言した姿から、動機は利他寄りに置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。