CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
陳表
罪人の枷を外して真実を聞いた、孫登の友
陳表は、字を文奥といい、廬江郡松滋県の人で、呉の将・陳武の庶子です。若くして名を知られ、諸葛恪・顧譚・張休とともに太子孫登に仕え、親しく交わりました。父が合肥で戦死すると、自ら将となることを願い出て五百の兵を率い、兵を心から大切にして慕われます。盗みを疑われ、拷問されても口を割らなかった兵・施明を任されると、枷を外して湯浴みをさせ、衣を替えて酒食でもてなし、自ら罪と仲間を明かさせました。山越の討伐では、褒美として与えられた二百戸の民を「父の仇を討つのは人あってのこと。精兵を下僕にしておくのは本意ではない」と兵に加えています。財をすべて兵の世話に使ったため、34歳で亡くなった日、妻子は住む家もなく、太子孫登が家を建てました。経歴は『三国志』呉書 陳武伝(附 陳表伝)をもとにしています。
呉の将・陳武の庶子。太子孫登に仕えた。父の戦死後、自ら五百の兵を率い、兵を大切にして慕われた。疑われた兵・施明の枷を外してもてなし、自ら罪を明かさせた。褒美の民も兵に加えて山越の討伐に励み、財を兵に使い尽くして34歳で亡くなった。
THE WAY OF LIFE
陳表の生き方
兄の陳脩が亡くなると、陳表の生母は正妻に仕えようとしなかった。陳表は「私が家を継ぐ以上、嫡母に仕えるのが筋です。それができないなら、別に住んでください」と母を諭し、二人の母はそれを悟って仲睦まじくなったという。
盗みを疑われた兵の施明は、ひどい拷問にも口を割らなかった。陳表は枷を外して湯浴みをさせ、衣を替えて酒食でもてなした。施明は自ら罪と仲間を明かし、孫権は陳表の名を立てて施明だけを許した。施明はのちに将軍にまで出世した。
持ち味と、その裏側
人の心を開かせる誠実さと、兵に慕われる面倒見のよさ。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
建安9年(204年)〜嘉禾6年(237年)
揚州廬江郡松滋県(父・陳武の出身地)
- 若い頃: 諸葛恪・顧譚・張休とともに太子孫登に仕える。尚書の曁艶が罪に問われたとき、ほかの者のように身を守らず、士人に重んじられる。太子中庶子から翼正都尉に。
- 建安20年(215年): 父の陳武が合肥で戦死する。陳表は自ら将となることを願い、五百の兵を率いる。
- その後: 盗みを疑われた無難軍の兵・施明の枷を外してもてなし、自ら罪を明かさせる。無難右部督・都亭侯に進むが、爵位を兄の子の陳延に譲ろうとして許されない。
- 黄龍元年(229年): 兄の陳脩が亡くなる。生母を諭して嫡母に仕えさせ、二人を和ませる。
- 呂壱が権勢をふるった頃: 潘濬とともに、讒言で捕らえられた鄭冑を救う(『文士伝』)。
- 嘉禾3年(234年): 新安都尉として諸葛恪の山越討伐に加わる。褒美の二百戸を兵に加える。三年で降った者を広く受け入れ、一万余りの兵を得る。
- その後: 鄱陽の呉遽の反乱に郡境を越えて駆けつけ、降らせる。陸遜により偏将軍・都郷侯となる。
- 嘉禾6年(237年): 34歳で在官のまま亡くなる。財は兵の世話に使い尽くし、妻子は住む家もなく、太子孫登が家を建てた。
主な出典
『三国志』呉書 陳武伝(附 陳表伝)、呉主伝の裴松之注所引『文士伝』。陳寿は「将家の庶子でありながら、名家の嫡子や名士と肩を並べ、抜きん出ていた」と評し、裴松之は父にまさる才があったと記す。『三国志演義』には登場しない。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
規律4のため秩序。拷問ではなく筋道で真実を明かさせ、父の爵位を甥に譲ろうとし、家の中でも嫡母を立てるなど、礼と公正を重んじた。
兵や身近な人を大切にし、自分の財や爵位より他人を立てた。動機は他者寄りに置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。