CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
陳登
文武と胆力を兼ね備えた、徐州の異才
陳登は、字を元龍といい、徐州下邳国淮浦県の人で、陳珪の子です。25歳で孝廉に推挙され、のち農政に力を注ぎました。陶謙の死後は、劉備を徐州の主に迎えることを後押しします。呂布が徐州を奪うとその配下となりましたが、父とともに内心では嫌っており、曹操と結ぶよう呂布に勧めました。曹操の信頼を得て広陵太守となり、孫策が攻めてくると、籠城して二度にわたって退けます。劉備は、陳登を「文武と胆志を兼ね備えた人物」と述べて擁護したと伝わります。魚の膾を好んで寄生虫に感染し、華佗の薬で一度は治りましたが、再発して39歳で亡くなりました。経歴は『三国志』魏書 呂布伝(陳登)をもとにしています。
徐州の名士。呂布に仕えながら父とともに曹操と結び、広陵太守として孫策の侵攻を退けたが、39歳で病没した。
THE WAY OF LIFE
陳登の生き方
胆力と知恵で、情勢の先を読む。陳登は、思い切った行動力と、民を治める実務力を併せ持つ人物像です。
勢力に縛られず、自分の目で主を選ぶ。挑戦の高さと、規律の低さに、その自由さと大胆さを重ねています。
持ち味と、その裏側
情勢を見て先に手を打つ戦略眼と、籠城も水利もこなす幅広い実務力。一方で、自分の判断を優先するため、周囲との摩擦も生みます。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年不詳(39歳で没)
徐州下邳国淮浦県の人。字は元龍。父は陳珪。
- 25歳で孝廉に推挙され、東陽県長となった。のち典農校尉として、灌漑などの農政に力を注いだ。
- 陶謙の死後、劉備を徐州の主に迎えることを後押しした。
- 呂布が徐州を奪うと、その配下となったが、父の陳珪とともに、内心では呂布を嫌っていた。父は袁術の使者の韓胤を捕らえて曹操に送り、陳登は呂布に、曹操と結ぶよう勧めた。
- 使者として曹操に会い、呂布を早く滅ぼすよう進言した。曹操の信頼を得て広陵太守に任じられ、呂布討伐では先駆けとして働いて、伏波将軍となった。
- 広陵では治安を整えて、人々から畏れと敬いを集めた。孫策が攻めてくると、籠城して二度にわたって退けた。のち東城太守に転じた。
- 劉備は、陳登を批判した許汜に対し、陳登を「文武と胆志を兼ね備えた人物」と述べて擁護したと伝わる。
- 魚の膾を好んで寄生虫に感染したが、華佗の薬で一度は治った。華佗は三年後の再発を予言し、その通りに再発したときには、華佗が不在で、39歳で亡くなった。
- 『三国志演義』では、一貫して劉備側の人物として描かれ、徐州で劉備を後継に推す一人として登場する。
主な出典
『三国志』魏書 呂布伝(陳登)・同注引『先賢行状』『呉書』、『三国志演義』
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:混沌・善
主君や勢力より、自分の判断で動いた姿から、規律は裁量寄りとしています。
広陵で民から慕われ、治安と灌漑を整えた姿から、動機は利他寄りに置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。