三國志人物鑑 CHRONICLES OF YOUR SOUL

THE ADDITIONAL CHRONICLE

逸伝篇について

本編の108人に入りきらなかった人物を、あとから書き足していく追加篇です。ONにすると、診断の候補と人物図鑑に、逸伝篇の人物が加わります。

ONとOFFで変わること

OFFのときは、本編108人だけが対象です。ONにすると、診断の結果に逸伝篇の人物が出ることがあり、図鑑にも「逸伝」の一覧と「隠れた人々」が増えます。結果は、ONかOFFかで変わることがあります。

切り替えについて

この画面の上のスイッチで、いつでも切り替えられます。診断の途中で切り替えても、回答は残ります(結果の候補だけが、結果が出る時点の設定になります)。既読の記録は、ONでもOFFでも保たれます。初期設定はOFFです。

人物について

逸伝篇には、史書に記録の少ない人物や、『三国志演義』などの物語の中で知られる人物も含まれます。物語の人物は、人物ページにそのことと出典を書いています。人物像やアラインメントは、本編と同じく、本サイト独自の解釈です。

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CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇

陳琳

袁紹の檄文で曹操を罵り、許されて仕えた建安七子の文人

陳琳は、字を孔璋といい、広陵郡の人です。大将軍・何進の主簿として、宦官を討つために各地の豪雄を都へ呼ぶ策を諫めましたが、聞き入れられませんでした。のち袁紹に仕え、官渡の戦いの前に曹操を責める檄文を書きます。鄴が落ちて曹操の前に引き出されても許され、曹操のもとで軍事と国政の文書を担いました。建安七子の一人に数えられ、217年に疫病で亡くなりました。経歴は『三国志』魏書をもとにしています。

字は孔璋。広陵郡の人。何進の主簿となり、189年、宦官を滅ぼすために各地の豪雄を上洛させる策に反対したが、聞き入れられなかった。何進の死後は冀州に身を寄せ、袁紹の幕僚となった。袁紹が臧洪を囲んだときには、同郷の臧洪へ降伏を勧める書簡を書いたが、臧洪は返書で退けた。200年、官渡の戦いに先立ち、曹操を責める檄文を書いた。袁紹の死後は袁尚に仕えた。204年、曹操に鄴を囲まれると降伏の使者となり、鄴が落ちると曹操の前に引き出されたが、許された。以後は曹操に仕え、司空軍師祭酒、のち門下督となって、阮瑀とともに軍事や国政の文書を多く作った。217年、疫病で没した。

THE WAY OF LIFE

陳琳の生き方

筆を取れば、相手が誰でも容赦しなかった。袁紹のために書いた檄文は、後に『文選』に名文として収められた。曹操に「私を責めるだけでよいのに、なぜ父祖にまで及んだのか」と問われ、陳琳は謝罪し、曹操は才を愛して咎めなかった。『魏書』に引く話では、「矢は弦にかかっており、放たざるを得ませんでした」と答えたとされる。

主は何度も変わった。何進、袁紹、袁尚、そして曹操へ。降伏を勧める書簡を書いた相手の臧洪は、返書で陳琳を「故友」と呼びつつ、勧めを退けて決別した。

持ち味と、その裏側

力強く、容赦のない文章。曹丕は「孔璋の章表はとりわけ力強い」と評し、劉勰は「符檄に声を擅にす」と述べた。一方、曹植は、辞賦に長じていないのに司馬相如と同じ風格があると思い込んでいたと批判し、顔之推は、袁紹のもとでは曹操を豺狼と呼び、魏では袁紹を蛇と見なしたことを「文人の大患」と評している。唐の呉融も、袁紹を離れて曹操に仕えたことを詩で責めている。

IN THE CHRONICLES

史実・物語の歩み(概略)

生年不詳〜217年

広陵郡の人。字は孔璋。

  1. 189年: 何進の主簿となる。宦官を滅ぼすために各地の豪雄を上洛させる策を「鹿を追うのに猟師の案内もない」「目を覆って雀を捕るようなもの」と諫めたが、聞き入れられず、何進は殺された(『後漢書』『三国志』)。
  2. 何進の死後: 冀州に身を寄せ、袁紹のもとで文書を担当した。
  3. 195年〜: 袁紹が臧洪を囲んだとき、同郷の臧洪へ降伏を勧める書簡を書く。臧洪は返書で陳琳を「故友」と呼びつつ、勧めを退けて決別した。
  4. 199年: 袁紹に囲まれた公孫瓚が、子へ宛てた書簡を袁紹が奪い、陳琳に書き換えさせたという。
  5. 200年: 官渡の戦いに先立ち、曹操を責める檄文を書く。後に『文選』に収められた。
  6. 202年: 袁紹の死後、袁尚に仕える。袁譚・袁尚の双方に断って獄に入れられた崔琰を、陰夔とともに救った。
  7. 204年: 曹操に鄴を囲まれ、陰夔とともに降伏を乞うたが、曹操は許さなかった。袁尚は敗れて逃れ、鄴は落ちた。
  8. 鄴の平定後: 曹操は檄文のことを問うたが、陳琳の才を愛して咎めなかった。司空軍謀祭酒として記室を管掌し、軍と国の書状や檄文は、陳琳と阮瑀が多く手がけた。のち門下督となる。
  9. 『魏書』の記す逸話: 曹操は頭風に苦しんで床に伏していたが、陳琳の檄文を読むと起き上がり、「これは私の病を治した」と言って、厚く褒美を与えた。
  10. 曹操の南征: 命を受けて『檄呉将校部曲文』を書き、孫権を責め、呉の将校たちに帰順を勧めた。
  11. 張紘への返信: 張紘が陳琳の『武軍賦』などを讃える手紙を送ると、「ここ河北は文を書く者が少ないから評されたまで。景興(王朗)がそちらにおり、あなたと子布(張昭)もいる。「小巫が大巫に見える」ようで、気力も失せました」と謙遜して返した。
  12. 217年: 疫病で没した。曹丕の『典論』で、建安七子の一人に挙げられた。

主な出典
『三国志』魏書「王衛二劉傅伝」(王粲伝に付す)、『後漢書』何進伝・臧洪伝、『太平御覧』所引の王沈『魏書』。経歴は Wikipedia「陳琳」の記述も参照しています。

Wikipediaで見る ↗

SOUL ALIGNMENT

人物像の分類:真なる中立

主の命に従って文書を書き、官職に従った人物だが、崔琰を熱心にかばうなど裁量も見えることから、規律は中立に置いています。

仕える主が変わっても、文書を書く務めを果たし続けた。主のために筆を取る立場で、善とも悪とも言い切れないことから、動機は中立に置いています。

このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。

ABOUT THE CHRONICLE

強さではなく、生き方を。

48問・8つの性格軸・108人の人物データを使用しています。回答の平均値と人物プロフィールの距離で順位を決め、知名度で優先しません。一致度は8軸の回答と人物データの近さを百分率で表したもので、科学的な確率ではありません。

アラインメントについて

史料に基づく人物像の解釈には幅があり、この分類は暫定的なものです。史料の記述と本サイトによる解釈を区別し、人物ごとの説明では分類の理由を紹介しています。人物ごとの出典の裏付けには差があります。Wikipediaのリンクがあることだけで、動機の解釈が確定するものではありません。

人物側は、個人・組織・他者のどれを行動の主目的と捉えるかを個別に設定しています。分類ごとの人数は、人物像の違いによって異なります。史実上の内心や善悪の判定ではありません。プレイヤーの回答は人数比に合わせて補正せず、そのまま計算します。プレイヤーのアラインメントは初期状態では非表示です。説明を読んで表示を選んだ場合だけ、画面・保存画像・コピーテキスト・Xの投稿文に含まれます。「規律」だけを秩序/中立/混沌、「動機」だけを善/中立/悪に対応させ、独立に判定します。3.25以上を秩序・善、2.75以下を混沌・悪とします。人物とユーザー診断には同じ判定範囲を適用します。中立は2.75より大きく3.25より小さい値で、境界の2.75・3.25は含みません。境界付近の人物は2.75・3.25で表し、混在する動機のうち本作で少し重視する側を示します。分類名の追加による加点はありません。

善=自分の損得と無関係に他者のために動くこと、悪=自分個人の利益のために動くこと。組織や家が主目的の場合、または主な動機を一方に決められない場合は中立です。複数の動機があっても、他者支援・個人利益のどちらが主目的か明確なら4・2で表します。ルールを守って個人の利益を求める「秩序・悪」、ルールを破って他者を助ける「混沌・善」の両方が成立します。実際の道徳性を測るものではなく、史実上の人物の善悪も断定しません。人物紹介は、人物タイプと8つの性格軸から読み解く、本サイト独自の人物像です。

収録は108名です。魏28名・蜀28名・呉28名・群雄ほか20名・晋4名で、勢力は魏・蜀・呉・群雄ほか・晋の5分類です。診断を終えた回答は、このタブのセッション内に保持します。サーバーへ送信しません。再読み込み後も「自分の診断結果へ」から戻れます。ブラウザが保存を制限する場合は再読み込みで失われます。再診断を選ぶと保持した結果を削除します。

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「善・中立・悪」は行動の動機を表すゲーム用の分類で、実際の道徳性を測るものではありません。

アラインメントは8軸のうち「規律」と「動機」の2軸だけで決まります。一致度は8軸全体で計算するため、一致度の高い人物と分類が異なる場合があります。

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