CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
陳琳
袁紹の檄文で曹操を罵り、許されて仕えた建安七子の文人
陳琳は、字を孔璋といい、広陵郡の人です。大将軍・何進の主簿として、宦官を討つために各地の豪雄を都へ呼ぶ策を諫めましたが、聞き入れられませんでした。のち袁紹に仕え、官渡の戦いの前に曹操を責める檄文を書きます。鄴が落ちて曹操の前に引き出されても許され、曹操のもとで軍事と国政の文書を担いました。建安七子の一人に数えられ、217年に疫病で亡くなりました。経歴は『三国志』魏書をもとにしています。
字は孔璋。広陵郡の人。何進の主簿となり、189年、宦官を滅ぼすために各地の豪雄を上洛させる策に反対したが、聞き入れられなかった。何進の死後は冀州に身を寄せ、袁紹の幕僚となった。袁紹が臧洪を囲んだときには、同郷の臧洪へ降伏を勧める書簡を書いたが、臧洪は返書で退けた。200年、官渡の戦いに先立ち、曹操を責める檄文を書いた。袁紹の死後は袁尚に仕えた。204年、曹操に鄴を囲まれると降伏の使者となり、鄴が落ちると曹操の前に引き出されたが、許された。以後は曹操に仕え、司空軍師祭酒、のち門下督となって、阮瑀とともに軍事や国政の文書を多く作った。217年、疫病で没した。
THE WAY OF LIFE
陳琳の生き方
筆を取れば、相手が誰でも容赦しなかった。袁紹のために書いた檄文は、後に『文選』に名文として収められた。曹操に「私を責めるだけでよいのに、なぜ父祖にまで及んだのか」と問われ、陳琳は謝罪し、曹操は才を愛して咎めなかった。『魏書』に引く話では、「矢は弦にかかっており、放たざるを得ませんでした」と答えたとされる。
主は何度も変わった。何進、袁紹、袁尚、そして曹操へ。降伏を勧める書簡を書いた相手の臧洪は、返書で陳琳を「故友」と呼びつつ、勧めを退けて決別した。
持ち味と、その裏側
力強く、容赦のない文章。曹丕は「孔璋の章表はとりわけ力強い」と評し、劉勰は「符檄に声を擅にす」と述べた。一方、曹植は、辞賦に長じていないのに司馬相如と同じ風格があると思い込んでいたと批判し、顔之推は、袁紹のもとでは曹操を豺狼と呼び、魏では袁紹を蛇と見なしたことを「文人の大患」と評している。唐の呉融も、袁紹を離れて曹操に仕えたことを詩で責めている。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年不詳〜217年
広陵郡の人。字は孔璋。
- 189年: 何進の主簿となる。宦官を滅ぼすために各地の豪雄を上洛させる策を「鹿を追うのに猟師の案内もない」「目を覆って雀を捕るようなもの」と諫めたが、聞き入れられず、何進は殺された(『後漢書』『三国志』)。
- 何進の死後: 冀州に身を寄せ、袁紹のもとで文書を担当した。
- 195年〜: 袁紹が臧洪を囲んだとき、同郷の臧洪へ降伏を勧める書簡を書く。臧洪は返書で陳琳を「故友」と呼びつつ、勧めを退けて決別した。
- 199年: 袁紹に囲まれた公孫瓚が、子へ宛てた書簡を袁紹が奪い、陳琳に書き換えさせたという。
- 200年: 官渡の戦いに先立ち、曹操を責める檄文を書く。後に『文選』に収められた。
- 202年: 袁紹の死後、袁尚に仕える。袁譚・袁尚の双方に断って獄に入れられた崔琰を、陰夔とともに救った。
- 204年: 曹操に鄴を囲まれ、陰夔とともに降伏を乞うたが、曹操は許さなかった。袁尚は敗れて逃れ、鄴は落ちた。
- 鄴の平定後: 曹操は檄文のことを問うたが、陳琳の才を愛して咎めなかった。司空軍謀祭酒として記室を管掌し、軍と国の書状や檄文は、陳琳と阮瑀が多く手がけた。のち門下督となる。
- 『魏書』の記す逸話: 曹操は頭風に苦しんで床に伏していたが、陳琳の檄文を読むと起き上がり、「これは私の病を治した」と言って、厚く褒美を与えた。
- 曹操の南征: 命を受けて『檄呉将校部曲文』を書き、孫権を責め、呉の将校たちに帰順を勧めた。
- 張紘への返信: 張紘が陳琳の『武軍賦』などを讃える手紙を送ると、「ここ河北は文を書く者が少ないから評されたまで。景興(王朗)がそちらにおり、あなたと子布(張昭)もいる。「小巫が大巫に見える」ようで、気力も失せました」と謙遜して返した。
- 217年: 疫病で没した。曹丕の『典論』で、建安七子の一人に挙げられた。
主な出典
『三国志』魏書「王衛二劉傅伝」(王粲伝に付す)、『後漢書』何進伝・臧洪伝、『太平御覧』所引の王沈『魏書』。経歴は Wikipedia「陳琳」の記述も参照しています。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:真なる中立
主の命に従って文書を書き、官職に従った人物だが、崔琰を熱心にかばうなど裁量も見えることから、規律は中立に置いています。
仕える主が変わっても、文書を書く務めを果たし続けた。主のために筆を取る立場で、善とも悪とも言い切れないことから、動機は中立に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。