CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
陳泰
狄道を救い、賈充の処罰を求めた人
陳泰は、陳群の子で、并州・雍州で辺境の統治と対蜀の守りを担った魏の将です。清廉さと、補給や地形を読んで動く戦い方が、本文に残ります。曹髦の死のあとに賈充の処罰を求めた話は、本文ではなく、注に引く書のものです。ここでの人物像は、記録からの読みです。
陳群の子で、字は玄伯。并州・雍州で異民族と蜀の守りを担い、狄道の王経を救った。曹髦の死のあと、賈充の処罰を求めたと注は伝える。
THE WAY OF LIFE
陳泰の生き方
并州で、貴人たちから預かった宝物の荷を開けずに保管し、召還のときにすべて返した。信条と規律の高さは、この逸話に基づく読みです。
姜維との戦いで、補給や地形を読み、戦わずに退かせる策を選んだ。構想と統率の高さは、本文の戦いの記録に基づく読みです。
持ち味と、その裏側
異民族を懐柔し、清廉で、補給と地形を読んで時間を味方にする戦い方。陳寿も「弘済簡至」と評している。一方、狄道救援の記事には、裴松之が疑った箇所があり、曹髦の死のあとの逸話にも書による違いがあります。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年不詳〜景元元年(260年)
潁川の陳氏。陳群の子。字は玄伯。
- 潁川の陳氏の名家で、陳群の子。陳群が亡くなると、泰が爵位を継いだ(本文)。字は玄伯。青龍年間(233〜237年)に散騎侍郎となり、正始年間に游撃将軍へ転じた。生年と母の名は、確認できない。
- 并州刺史、振威将軍、護匈奴中郎将を兼ね、異民族を「懐柔し、はなはだ威と恵があった」と本文は記す。洛陽の貴人たちが、宝物を預けて奴婢の購入を頼んでいたが、泰はその荷を開封せず、壁に掛けて保管し、召還されたときにすべて返したという。ただし奴婢の売買という制度が前提の話で、泰が売買に反対したという証拠ではない。
- 嘉平年間の初め、郭淮の後任として雍州刺史となり、奮威将軍を兼ねた。
- 姜維が麴山に城を築いたとき、泰は補給路を断ち、救援が来ても無理に決戦せず、退路を脅かす策を立てた。「兵法は、戦わずして人を屈するを貴ぶ」と述べ、姜維は退き、城に残された句安らは降った(本文)。
- 正元2年(255年)、王経が洮西で敗れて狄道に籠もると、鄧艾らは救援を待つべきだと言った。泰は、姜維は野戦に勝った勢いに乗っているが、長期の攻城に要る物資は足りない、と判断し、「戦わずとも必ず退く」と見通して進軍した。高城嶺を越え、夜に狄道東南の高地へ着き、烽火と鼓角で城内を励まし、敵の退路を脅かした。姜維は退き、王経は救われた(本文)。裴松之は、敵が援軍を予期しなかったという説明と、伏兵を三日置いたという説明とが、合わないと指摘している。
- 曹髦の死のあと、本文に泰の行動を詳しく描く箇所はない。注に引く干宝『晋紀』は、司馬昭に事件の処理を尋ねられた泰が「賈充を誅して、天下に謝すべきだ」と答えたとする。『魏氏春秋』は、泰が司馬孚とともに曹髦の遺体を抱いて泣き、賈充の処刑を求めたと描き、のち吐血して亡くなったとする。『晋書』は、泰が賈充の腰斬を求めたと記す。
- 裴松之は、『晋紀』が泰を太常とするのは陳寿本文の官歴と合わず、『魏氏春秋』と『晋紀』で泰の言葉が異なるのは、根拠のない改変を疑うと批判している。泰本人ではなく、泰を描いた書の記述への批判である。会話の細部は、確定した事実として扱えない。
- 景元元年(260年)に亡くなり、司空を追贈され、諡は穆侯(本文)。吐血して死んだという話は、注に引く『魏氏春秋』のもので、本文ではなく、死因として確定できない。
- 陳寿は評に「泰は弘済簡至、まことに堂構を克くす」と記し、父の業を継ぐにふさわしかったと述べる。陳泰伝には、武陔が泰と父の群を比べ、学識や教化への関心では父が勝り、物事を整えて実行する力では泰が勝る、と評した記録もある。
主な出典
『三国志』魏書 陳泰伝(巻22、裴松之注に引く『晋紀』『魏氏春秋』)、三少帝紀、『晋書』文帝紀
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
私的な依頼に距離を置き、公の任務に沿って動いた記録から、規律は秩序寄りとしています。
預かった荷を開けず返した逸話や、王経を救援した行動は、公に尽くす方向に揃っています。ただし、本人の内心が書かれているわけではありません。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。