CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
陳寔
盗人を諭し、人々のために獄に入った名士
陳寔は、字を仲弓といい、後漢末の名士で、王烈の師であり、陳群の祖父です。梁の上に隠れた盗人を罰さず、諭して絹を与えたという「梁上の君子」の逸話で知られます。党錮の禁では自ら獄に入り、不当な徴税には官を辞して抗議したとも記されています。没年は史料により186年と187年に分かれ、葬儀の人数も記録ごとに違うため、異同は併記して扱います。
字は仲弓。潁川郡許県の人。太丘長を務めた後漢末の名士で、王烈の師、陳群の祖父。党錮の禁では自ら獄に入ったと伝わる。
THE WAY OF LIFE
陳寔の生き方
貧しい家に生まれ、県の下級官吏から学問で身を起こしたと記されます。太丘長のときは、民の訴えを禁じようとする他の役人に反対し、不当な徴税を行う上官のもとでは官印を返して去ったと伝わります。
党錮の禁の時代、宦官の父の葬儀にも弔問し、党人が逮捕されるときには自ら獄に入りました。盗人の話では、人は生まれつき悪いとは限らず、習慣で悪に至ることもある、と子孫に語ったとされます。
持ち味と、その裏側
身分や立場よりも、人が実際に何をしたかを見る目と、そのうえで人の側に立つ行動力。一方で、宦官の推薦をめぐる場面では事情を明かさず批判を受けたと記されており、原則と現実のあいだで動くやり方は、周囲に理解されにくいこともあったと考えられます。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
104年頃〜186年または187年(享年83歳または84歳)
字は仲弓。潁川郡許県の人。陳群の祖父。「陳実」とも表記される。
- 貧しい家に生まれ、若い頃は県の吏だった。学問を好み、県令の鄧邵に才能を認められて太学で学んだ(『後漢書』)。
- 督郵・西門亭長・功曹などを経て、司空の黄瓊に登用され、聞喜長、のち太丘長を務めた。「陳太丘」とも呼ばれる。任官の年は多くが明確でない(『後漢書』、裴注『魏書』)。
- 太丘では、訴えを防ぐために住民を制限しようとする役人に「訴えは正しさを求めるためのもの。禁じてどうする」と反対した。沛国の相が法に反する賦課を行ったため、官印を返して職を去った(『後漢書』)。
- 宦官の侯覧が推薦した人物を、郡太守の高倫が採ろうとした際、陳寔は不適任と見ながら、推薦者の責任が太守に及ばない方法を進言した。批判を受けても事情を明かさなかったが、のち高倫が真相を説明し、評価が高まった(『後漢書』)。
- 党錮の禁で党人の逮捕が行われた際、陳寔は「私が獄に入らなければ、人々は頼るところを失う」と言って自ら拘禁を受け、のち赦された(『後漢書』)。何年の出来事かは確定できない。
- 宦官・張譲の父の葬儀には、名士が弔問を避ける中、陳寔だけが訪れた。のちに党人への迫害が再び起こると、張譲はこの恩を思い、多くの人を保護したと記される(『後漢書』)。陳寔の内面の動機や、救われた人数は不明。
- 「梁上の君子」:飢饉のころ、盗人が夜に忍び込んで梁の上に隠れた。陳寔は気づいたが捕らえず、子孫を呼んで、人は生まれつき悪いのではなく、習慣で悪に至ることもあると諭し、梁の上の人を「君子」と呼んだ。盗人は降りて罪を認め、陳寔は困窮を思って絹二匹を与えた(『東観漢記』『後漢書』)。
- この逸話は『東観漢記』にも骨格があり、『後漢書』の成立後に作られた話ではない。ただし現行の『東観漢記』は輯佚による復元で、生前からの伝承とまでは言えない。「県内の盗難がなくなった」という結末は、徳治を称える伝記の表現として慎重に扱う。
- 六人の息子のうち、陳紀・陳諶が特に名高く、三人は「三君」と呼ばれた(『後漢書』)。孫の陳群を幼いころから高く評価し、一族を興す人物になるだろうと見た(『三国志』陳群伝・本文)。発言の一字一句は確かめられない。
- 王烈は陳寔に師事し、その二人の息子とも友になった。荀爽・賈彪・李膺・韓融らとも交流があったと伝わる(裴注『先賢行状』、『後漢書』)。王烈の盗人の話との思想的な近さは、解釈の範囲にとどめる。
- 没年は史料で異なる。蔡邕『陳太丘碑文』は中平3年(186年)に83歳、『後漢書』は中平4年(187年)に84歳とする。裴注『魏書』には霊帝の死去(189年)後に何進が招いたとする記述もあり、年代が合わない。いずれも一つに確定できない。
- 葬儀の人数も異なる。蔡邕の碑文は、荀爽・韓融ら500余人が喪服を着け、遠近の参列者は千人以上と記す。『後漢書』と裴注『傅子』は、参列者三万人余、喪服を作った者は数百人とする。碑文には、質素な棺と簡素な葬儀を望んだとも記される。
- 「文範先生」と称えられた(蔡邕碑文、裴注『先賢行状』、『後漢書』)。皇帝が官位に応じて贈る諡号とは、単純に同じものとして扱わない。
- 蔡邕の碑文は、名声が高くても公卿の地位に就かなかったことを称える。ただし追悼の碑文で、中立の評価ではない。『後漢書』の史論は、陳寔の進退は節度にかなっていたと評するが、范曄による後世の評価である。豫州の人々が、陳寔・陳紀・陳諶の肖像を描いたと伝わる(裴注『魏書』)。
- 後世の扱い:『世説新語』には、約束の時刻に遅れた友人を幼い陳紀が叱る話や、母の病を偽った役人に処刑を命じた話などが載る。説話として扱う。陳寔が荀淑の家を訪ねた話は、荀淑の没年(149年)と荀彧の生年(163年)が合わず、年代上の矛盾がある。子を捨てた母の事件を優先した話は、劉孝標注が賈彪の事績だと指摘する。
主な出典
『後漢書』巻62 陳寔伝、『三国志』魏書 巻22 陳群伝(裴注『魏書』『傅子』『先賢行状』)、巻11 管寧伝(裴注『先賢行状』)。『東観漢記』陳寔条、蔡邕『陳太丘碑文』、『世説新語』。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
民の訴えを禁じず、法に反する徴税には従わなかった官吏としての姿から、規律は秩序寄りに置いています。
盗人に絹を与えた話、党錮の禁で自ら獄に入った話、宦官・張譲の父の葬儀に弔問した話は、いずれも『後漢書』などに記された行動です。人々が頼る場所であろうとした姿を重く見て、動機は利他寄りに置いています。ただし内面の動機は史料から断定できず、逸話の細部も独立には確かめられません。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。