CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
陳到
趙雲に次ぐと称され、劉備の白毦兵を率いて永安を守った将
陳到は、字を叔至といい、豫州汝南の人です。劉備が豫州にいた頃から従った古参で、名も位も常に趙雲に次ぐと称され、ともに忠勇で知られました。劉備の精鋭「白毦兵」を率い、建興の初めには永安都督・征西将軍となり、亭侯に封じられます。呉との境の要地・永安を守り、在官のまま亡くなりました。経歴は『三国志』蜀書 楊戯伝などをもとにしています。
字は叔至。豫州汝南の人。劉備が豫州刺史・豫州牧だったころから従い、「名位は常に趙雲に亜ぎ、ともに忠勇をもって称された」と『三国志』は記す。劉備の死後は、白毦兵と呼ばれる精鋭の指揮を担った。建興の初め、護軍として李厳の配下にあり、建興4年(226年)、諸葛亮が北伐のため漢中へ軍を移すと、李厳が江州へ移り、陳到が永安の守りを任された。諸葛亮は、陳到の率いる白毦兵を「先帝の帳下の兵で、西方の上兵」と評した。官は征西将軍・永安都督に至り、亭侯に封じられた。永安都督の任にあるまま世を去り、のちに宗預が後任となった。没年は確定していない。
THE WAY OF LIFE
陳到の生き方
劉備が小沛にいたころから、苦しい時期も従い続けた。名は趙雲に次ぐと並び称されたが、史書に残る記事は驚くほど少ない。
劉備の死後は、呉との境の永安にとどまって守り続けた。北伐の華やかな戦場から離れた、静かで重い役目だった。
持ち味と、その裏側
精鋭の兵を率い、境の要地を守り続ける重厚さ。楊戯は「統率には精鋭を選び、猛将の烈を持つ」と讃え、陳寿も「忠勇をもって称された」と記した。一方で、事績を伝える史料は乏しく、功績の細部はほとんど分からない。『三国志演義』には登場しない。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年不詳〜没年未確定
豫州汝南の人。字は叔至。
- 豫州汝南の人。劉備が豫州刺史・豫州牧だった時期から従った(『三国志』)。
- 陳寿は「名位は常に趙雲に亜ぎ、ともに忠勇をもって称された」と記す。
- 劉備の死後、白毦兵(白耳兵とも)と呼ばれる精鋭の指揮を担った。
- 建興の初め、護軍として李厳の配下にあった。建興4年(226年)、諸葛亮が北伐のため漢中へ軍を移すと、李厳は江州へ移り、陳到は永安の守りを任された。
- 諸葛亮は書簡で、陳到の統べる兵は「先帝の帳下の白毦で、西方の上兵」だと述べている。
- 官は征西将軍・永安都督に至り、亭侯に封じられた。
- 永安都督の任にあるまま亡くなり、後任は宗預だった。没年は確定せず、宗預の着任(延熙10年、247年)を基準にする説と、征西将軍の後任が姜維となった建興8年(230年)より前とする説がある。
主な出典
『三国志』蜀書「鄧張宗楊伝」(楊戯『季漢輔臣賛』を含む)、『華陽国志』。経歴は Wikipedia「陳到」の記述も参照しています。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・中立
任された守りに就き続けた生き方から、規律は秩序寄りに置いています。
劉備、のち劉禅に仕え、与えられた守りの任を守り続けたことから、動機は中立(主君のため)に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。