CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
関索
父の名を背負って駆ける若武者
関索は、関羽の子として語られる、物語の中の人物です。陳寿の『三国志』には登場しません。明の『花関索伝』では、生まれる前に家を失い、七歳で連れ去られて育ち、花岳のもとで武芸を学びます。十八歳で山を下りると、耳の後ろの肉の塊を目印に、母の胡金定と再会します。母を連れて父を探しに出る道中で、鮑三娘や王桃・王悦と出会って妻に迎え、西川で関羽の隊に加わります。『三国志演義』(毛宗崗父子の修訂版)では、荊州から逃れて諸葛亮に従い、孟獲を征する場面が加わりました。雲南・貴州には、関索嶺など、関索にちなむ地名と伝承が残っています。経歴は『花関索伝』『三国志演義』をもとにしています。
関羽の子として語られる、物語の中の若武者。『花関索伝』では、生まれる前に家を失い、十八歳で母と再会して父を探しに出る。道中で鮑三娘や王桃・王悦を妻に迎える話で知られる。
THE WAY OF LIFE
関索の生き方
父の名の重さを知りながら、それを理由に立ち止まらない。ここで描く関索は、背負うものを力に変えて、まず自分から駆けつける人物像です。
明るさと勢いが先に立つのは、軽さではなく、迷いを抱えたまま動ける強さです。行く先で人と出会い、戦い、受け入れられていく物語の姿を、人物像の芯に置いています。
持ち味と、その裏側
危うい場面でも前へ出て、周囲の気持ちを上向きにできます。ただ、名のある家の期待を一人で背負いやすいため、疲れた時は先に周りへ預けることも大切です。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生没年不詳(物語の人物)
関羽の子として語られる架空の人物。『花関索伝』では関平に次ぐ次男、『三国志演義』(毛宗崗父子の修訂版)では三男とされる。陳寿『三国志』には登場しない。
- 桃園結義の直後、張飛の手で関羽の家族が殺された。身重の母・胡金定は逃れて実家へ戻り、そこで関索を産んだ(『花関索伝』)。
- 七歳の元宵の夜に灯籠見物ではぐれて連れ去られ、索員外の家で育てられた。九歳で花岳に預けられ、十八歳まで山で武芸と兵法を学んだ。「花関索」の名は、師の花・実父の関・養父の索から取ったもの(『花関索伝』)。
- 山を下りて養父の索員外から実の母が胡金定だと聞き、母の実家の胡家荘を訪ねた。母は、幼い頃に耳の後ろにあった肉の塊を目印に、関索を実の子と確かめた。胡家荘に押し寄せた山賊を退け、許抜山・趙拿雲ら十二人の頭領を従えると、母を連れて、父のいる西川へ向かった(『花関索伝』)。
- 鮑家荘で鮑三娘と勝負して勝ち、妻に迎えた(『花関索伝』)。
- 蘆塘塞で王桃・王悦の姉妹に勝ち、次妻に迎えた(『花関索伝』)。
- 母の胡金定も同行し、道中で出会った張飛に、18年前に家を失った事情を語った。父の関羽には一度は認めてもらえなかったが、張飛の取りなしで親子の名乗りを上げた。曹操が落鳳坡で開いた宴では、舞剣の勝負で呂高と張林を討ち、劉備を守った(『花関索伝』)。
- 西川攻めでは、呂凱・王志・周倉らを次々に破って従えた。呂凱は関三凱、王志は関志と名を改め、義弟となった(『花関索伝』)。
- 劉備の養子・劉豊と争って雲南へ貶され、その間に、劉豊が荊州からの救援の書状を握りつぶしたため、関羽は呉に敗れて亡くなった。病から立ち直った関索は、呂蒙・陸遜らを捕らえて成都へ送り、仇を討った(『花関索伝』)。
- 劉備が世を去り、諸葛亮も隠遁すると、気落ちした関索は病に伏して亡くなった。妻たちはそれぞれ故郷へ帰った(『花関索伝』)。
- 清初に毛宗崗父子が修訂した『三国志演義』で、荊州から西川へ逃れ、諸葛亮に従って孟獲を征する場面が加えられた。
- 雲南・貴州には、関索嶺など、関索にちなむ地名と伝承が残る。
主な出典
『花関索伝』(明・成化年間刊の説唱詞話)、『三国志演義』(早期の刊本の一部と、清初に毛宗崗父子が修訂した版)、雲南・貴州の関索伝承
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:中立・善
父の名と蜀の旗の下で動く姿を踏まえ、規律は秩序と裁量の釣り合いに置いています。
父の名と蜀のために駆けつける姿に、家と仲間への責任を重ねています。個人の功名より、守る側に立つ面を重く見て、動機は利他寄りとしています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。