CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
鍾離牧
田を譲った長者、二千里を駆けた将
鍾離牧は、字を子幹といい、揚州会稽郡山陰県の人です。若い頃、自分で開いた田の稲を、言いがかりをつけた県民に黙って譲り、その県民が罰せられそうになると、かばって許させました。これで名が知られます。南海太守として長く暴れていた賊を説き伏せて降らせ、山越の反乱も平定しました。263年に蜀が滅ぶと武陵太守となり、魏の誘いで揺れる五溪の地へ、わずか三千の兵で二千里近い険路を昼夜進み、すぐに平定します。武陵太守のまま亡くなり、家に財産は残っていなかったと伝わります。経歴は『三国志』呉書 鍾離牧伝をもとにしています。
揚州会稽郡山陰県の人。自ら開いた田の稲を県民に譲った逸話で名を知られた。南海太守として賊を説き伏せ、山越の反乱を平定した。蜀の滅亡後は武陵太守として三千の兵で五溪を平定し、在官のまま亡くなった。家に財産は残らなかった。
THE WAY OF LIFE
鍾離牧の生き方
永興で自ら開いた田の稲が実る頃、県民が自分の田だと言い出すと、鍾離牧は「荒れていたから耕しただけだ」と稲を渡した。県長がその県民を罰しようとすると、「わずかな稲で人を殺すなら、もうここにはいられない」と荷をまとめ、県民を許させた。恥じた県民が米を返しに来ても、門を閉じて受け取らなかった。
蜀の滅亡後、魏が五溪の民を誘って武陵を揺さぶった。役人たちは「刺激せず、少しずつ慰撫すべき」と言ったが、鍾離牧は「火を消すのは速さが大事だ」と退け、三千の兵で二千里近い険路を昼夜進んで首謀者を討ち、五溪を平定した。
持ち味と、その裏側
情に厚い寛大さと、ここぞという時の素早い決断。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生没年不詳(呉の中期〜末期)
揚州会稽郡山陰県(現在の浙江省紹興市)
- 若い頃: 口が重く鈍いと見られたが、兄の鍾離駰は「牧はきっと私に勝る。侮ってはいけない」と言った。
- 永興で: 自ら開いた田の稲を、言いがかりをつけた県民に譲り、名が知られる。
- 赤烏5年(242年): 太子輔義都尉となり、のち南海太守。高涼の賊を十日で降らせ、十年余り暴れた掲陽の賊を説き伏せて良民にする。
- 中書令の頃: 建安・鄱陽・新都の山民の反乱を監軍使者として平定し、秦亭侯となる。
- 永安6年(263年): 蜀の滅亡後、武陵太守となる。三千の兵で険路を二千里近く進み、五溪を平定する。都郷侯に封じられ、のち濡須督。
- 晩年: 前将軍・仮節として武陵太守を兼ね、在官のまま亡くなる。家に財産は残っていなかった。
主な出典
『三国志』呉書 鍾離牧伝、裴松之注所引『会稽典録』。陳寿は呂岱・周魴・全琮らと並べ、鍾離牧を「長者の規を踏む」と評した。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:中立・善
規律3のため中立。田の件では法より情をとって県民を許させた一方、五溪への出兵では、反対する役人を軍法で処すと命じた。
自分の得より、目の前の人と国の安定を選んだ。亡くなったとき家に財産がなく、士民に慕われたと伝わる。動機は他者寄りに置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。