CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
鍾繇
関中を治め、楷書の礎を築いた曹魏の太傅
鍾繇は、字を元常といい、豫州潁川郡長社県の人です。若くして孝廉に推挙され、献帝が長安にいたころ、李傕・郭汜と交渉して曹操の使者を通しました。献帝の長安脱出と東帰に力を尽くし、東武亭侯に封じられます。建安4年(199年)、司隷校尉として関中を任され、馬騰・韓遂の子を人質に取り、建安7年(202年)には郭援を汾水で大破して、曹操から「蕭何」になぞらえられました。魏国では大理・相国を経て、黄初4年(223年)に太尉、226年に太傅となります。太和4年(230年)に没し、書は楷書の祖とされます。経歴は『三国志』魏書 鍾繇華歆王朗伝をもとにしています。
豫州潁川郡長社の人。字は元常。若くして孝廉に推挙され、献帝が長安にいた頃、李傕・郭汜と交渉して曹操の使者を通した。献帝の東帰に力を尽くし、東武亭侯に封じられる。曹操に関中を任され、司隶校尉として馬騰・韓遂らを抑え、流民を呼び戻して人口を回復させた。郭援を大破した功により、曹操から「萧何」になぞらえられる。魏国では大理・相国・太尉・太傅を歴任し、太和4年(230年)に没した。書は楷書の祖とされる。
THE WAY OF LIFE
鍾繇の生き方
関中では、馬騰・韓遂らの子を人質に取り、流民を移して人口を回復させた。建安7年(202年)には、郭援を汾水で大破して斬る。郭援は鍾繇の甥だったが、「国賊を討った」と述べて動じなかったと伝わる。その冷静さは、統治者としての強さであり、同時に冷たさとも読める。
楷書の祖とされ、『荐季直表』『宣示表』などが伝わる(真跡は失われ、伝臨本)。政治では肉刑の復活を唱えたが、議論の末に採られなかった。『三国志演義』では長安を失う守将として描かれ、史書の功績とは異なる。『陸氏異林』の妖女退治の逸話も史書の外である。
持ち味と、その裏側
関中の統治と後方支援を支えた実務力と、曹操に「萧何」と評された信任。書の大成も含めた多面的な才能。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
151年〜230年(太和4年)
豫州潁川郡長社県(現在の河南省長葛市)
- 151年(推定): 潁川長社に生まれる(『三国志』注)。
- 若年: 孝廉に推挙され、尚書郎・陽陵令、廷尉正・黄門侍郎を歴任(『三国志』)。
- 195年(興平2年): 李傕・郭汜と交渉して曹操の使者を通す。李傕を討つ謀に加わり、献帝の長安脱出を助ける(『三国志』)。
- 196年(建安元年): 献帝の東帰の功により、東武亭侯に封じられる(『三国志』)。
- 199年(建安4年): 司隶校尉として持節・関中諸軍を督し、馬騰・韓遂の子を人質に取る(『三国志』)。
- 202年(建安7年): 南匈奴単于の乱の平定に当たり、郭援を汾水で大破して斬る(『三国志』)。
- 205年(建安10年): 河東で衛固・高干の反乱が起きると、張既とともに鎮圧し、衛固・張琰を斬る(『三国志』)。
- 211年(建安16年): 漢中の張魯討伐を命じられる。馬超らが反乱し、関中の戦いが始まる(『三国志』)。
- 213年(建安18年): 司隶校尉が廃され、前軍師となる。魏国が建つと大理に任ぜられる(『三国志』)。
- 216年(建安21年): 相国となる(『三国志』)。
- 219年(建安24年): 魏諷の謀反事件に連座して免官される。のち復帰する(『三国志』)。
- 223年(黄初4年): 太尉に任ぜられる(『三国志』)。
- 226年(黄初7年): 曹叡の即位で定陵侯に進み、太傅となる(『三国志』)。
- 230年(太和4年): 没する。謚は成(『三国志』)。
- 243年(正始4年): 魏武帝の廟に配享される(『三国志』)。
主な出典
『三国志』魏書 鍾繇華歆王朗伝第十三(裴松之注を含む)。『三国志演義』(長安の守将として描写)。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
規律4のため秩序。肉刑の復活を唱えるなど、法制度の整備を重んじた。
王室の安定と民の立て直しを重んじた。動機は善として扱います。ただし、曹操に仕えた後は魏の勢力拡大を支えた面もあり、漢室への忠と曹氏への忠の関係は評価が分かれます。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。