CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
鍾会
才能をみがき、野心が先へ先へと走った人
鍾会は、字を士季といい、名臣・鍾繇の子です。幼いころから才を認められ、母の厳しい教育を受けて、15歳で太学に入りました。高平陵の変(249年)のあとは司馬昭の腹心となります。景元4年(263年)、鎮西将軍として蜀の征伐に出ると、鄧艾が成都へ迫って劉禅が降伏しました。その後、鄧艾との書簡で疑いを深めさせて逮捕させ、その軍を手に入れます。しかし景元5年(264年)正月、姜維らと挙兵して失敗し、姜維とともに討たれました。享年40。傅嘏は「野心が才能より大きい」と警告していたと伝わります。経歴は『三国志』魏書 鍾会伝をもとにしています。
名門に生まれた天才肌の謀臣。司馬昭に仕えて蜀を滅ぼしたが、のち反乱を起こして討たれた。
THE WAY OF LIFE
鍾会の生き方
考えることと、実行することの両方に自信がある。鍾会は、先を読む頭脳と、大きな賭けにも出る大胆さを併せ持つ人物像です。
才を認められたい思いが、やがて野心へと膨らんでいった。構想と挑戦の高さに、その勢いを重ねています。
持ち味と、その裏側
先を見通す知性と、大きな局面で動ける決断力。一方で、自分の才に頼りすぎると周囲との溝が深まりやすいため、人の意見を聞く余白も大切です。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
黄初6年(225年)〜景元5年(264年)
字は士季。豫州潁川郡長社県の人。鍾繇の子。
- 名臣・鍾繇の子。幼いころから才を認められ、母の厳しい教育を受けた。15歳で太学に入り、学問でも評判になった。
- 正始8年(247年)に尚書郎。249年の高平陵の変に随行し、のち司馬昭の腹心となった。
- 景元4年(263年)、鎮西将軍として蜀の征伐に出る。剣閣で姜維と対峙する間に、鄧艾が成都へ迫って劉禅が降伏した。
- 鄧艾と書簡のやりとりをして疑いを深めさせ、謀反の疑いで鄧艾を逮捕させ、その軍を手に入れた。
- 景元5年(264年)正月、姜維らとともに挙兵したが、魏の将兵の反発で失敗し、姜維とともに討たれた。享年40。傅嘏が「野心が才能より大きい」と警告していたと伝わる。
主な出典
『三国志』魏書 鍾会伝
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:中立・悪
定められた立場より、自分の野心と判断を優先する姿から、規律は裁量寄りとしています。
自分の才能と地位を高めたい思いが強く表れる姿から、動機は利己寄りに置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。