CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
郭淮
蜀の北伐を長く受け止め続けた、西方の守将
郭淮は、字を伯済といい、并州太原郡陽曲県の人です。219年、定軍山で夏侯淵が戦死して軍が混乱すると、杜襲とともに兵をまとめ、張郃を司令官代行に推して、劉備軍の侵攻を防ぎました。228年の街亭の戦いでは高翔を攻めて蜀軍を退け、234年に諸葛亮が斜谷から出たときは、陽遂への攻撃計画を見抜いて守りを固めます。249年に征西将軍となり、雍州・涼州の軍を統括して、姜維の侵攻を防ぎ続けました。255年に亡くなり、大将軍を追贈されます。西方で蜀の北伐を長く受け止めた守将です。経歴は『三国志』魏書 郭淮伝をもとにしています。
魏の西方を守った将。夏侯淵の死後の混乱を収め、諸葛亮や姜維の北伐を長く防いだ。
THE WAY OF LIFE
郭淮の生き方
騒がず、目の前の務めを積み重ねる。郭淮は、慎重な統率力と、相手の心情を読む細やかさを併せ持つ人物像です。
派手な勝利は少なくても、持ち場を守り抜いた。規律と統率の高さに、その堅実さを重ねています。
持ち味と、その裏側
情勢を読んで、無理な戦いを避ける慎重さと、降伏者や異民族の心をつかむ配慮。一方で、守りを重んじるぶん大胆な好機を逃し、戦いで敗れることも少なくありませんでした。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
?年〜正元2年(255年)
并州太原郡陽曲県の人。字は伯済。弟に郭配(賈充・裴秀の妻の父)。
- 孝廉に推挙され、曹丕の側近を経て、曹操の漢中征伐に従った。
- 219年、定軍山で夏侯淵が戦死して軍が混乱すると、杜襲とともに兵をまとめ、張郃を司令官代行に推した。劉備軍の侵攻を防いだ。
- 曹丕が即位したころ、雍州刺史に任じられ、羌族や氐族の統治にもあたった。
- 228年の街亭の戦いでは、張郃が馬謖を破り、郭淮は高翔を攻めて蜀軍を退けた。231年に諸葛亮が上邽に迫ったときは、羌族をなだめて兵糧を確保した。
- 234年、諸葛亮が斜谷から出たとき、陽遂への攻撃計画を見抜き、守りを固めた。244年の曹爽の蜀攻めでは、形勢が悪いと見て早くに軍を引き、大敗を避けた。
- 249年に征西将軍となり、雍州・涼州の軍を統括した。姜維の侵攻を防ぎ続け、250年に車騎将軍・儀同三司となった。
- 251年、王淩の乱で、王淩の妹である妻が罪に問われかけた。子らの嘆願を聞き、妻を取り戻して司馬懿に事情を述べると、罪を問われなかった。
- 255年に亡くなり、大将軍を追贈された。
- 『三国志演義』では、木牛流馬への対応など、蜀に対して策を立てる魏の将として描かれる。
主な出典
『三国志』魏書 郭淮伝、『三国志演義』
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
魏の軍の指揮と手続きを守って動く姿から、規律は秩序寄りとしています。
降伏した相手の事情まで気づかい、羌族との関係を保つ姿から、動機は利他寄りに置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。