三國志人物鑑 CHRONICLES OF YOUR SOUL

THE ADDITIONAL CHRONICLE

逸伝篇について

本編の108人に入りきらなかった人物を、あとから書き足していく追加篇です。ONにすると、診断の候補と人物図鑑に、逸伝篇の人物が加わります。

ONとOFFで変わること

OFFのときは、本編108人だけが対象です。ONにすると、診断の結果に逸伝篇の人物が出ることがあり、図鑑にも「逸伝」の一覧と「隠れた人々」が増えます。結果は、ONかOFFかで変わることがあります。

切り替えについて

この画面の上のスイッチで、いつでも切り替えられます。診断の途中で切り替えても、回答は残ります(結果の候補だけが、結果が出る時点の設定になります)。既読の記録は、ONでもOFFでも保たれます。初期設定はOFFです。

人物について

逸伝篇には、史書に記録の少ない人物や、『三国志演義』などの物語の中で知られる人物も含まれます。物語の人物は、人物ページにそのことと出典を書いています。人物像やアラインメントは、本編と同じく、本サイト独自の解釈です。

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CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇

辛毗

曹丕の衣の裾をつかんで諫め、五丈原では司馬懿の出撃を止めた魏の直臣

辛毗は、字を佐治といい、潁川郡陽翟県の人で、兄の辛評とともに袁紹に仕えました。建安8年(203年)、袁譚の使者として曹操に救援を求め、曹操が荊州を先に討とうとすると、「天が袁尚を明公に与えようとしているのに、取らずに荊州を伐たれるのか」と迫り、河北の平定を先にさせます。鄴の陥落後、兄の家族がすでに殺されていたことを知り、号泣しました。曹丕が太子に立てられて首に抱きついて喜んだとき、娘の辛憲英は魏の先行きに不安を覚えたと伝わります。曹叡の時代にも造営を諫め、青龍2年(234年)には軍師として五丈原へ赴き、司馬懿の出撃を止めました。経歴は『三国志』魏書 辛毗伝をもとにしています。

字は佐治。潁川郡陽翟県の人。兄の辛評とともに袁紹に仕え、袁譚の使者として曹操に救援を求め、河北を先に平定するよう説いた。曹丕には遷都の人数を半分に減らさせ、曹叡には造営を諫め、青龍2年(234年)には軍師として五丈原へ赴き、司馬懿の出撃を止めた。

THE WAY OF LIFE

辛毗の生き方

曹丕が怒って奥へ入ろうとすると、衣の裾をつかんで離さなかった。言うべきことは主君の前でも言い切る、まっすぐな人です。

劉放・孫資に取り入らない理由を問われ、「三公の名のために節を曲げる大丈夫がいるか」と答えた。信条は最高に置いています。

持ち味と、その裏側

主君が怒っても、相手の事情と民の苦しみを筋道立てて説き続ける諫言の粘り強さ。袁氏の内紛を見抜いた情勢判断の確かさ。権勢のある側近に取り入らない気骨。一方で、性格が剛直で専断に過ぎると評され、尚書僕射には就けなかった。統率は、軍師として軍を鎮めた場面はあるものの、自ら大軍を率いた記録は少ないため中程度に置いています。

IN THE CHRONICLES

史実・物語の歩み(概略)

生没年不詳(曹操・曹丕・曹叡の三代に仕えた)

潁川郡陽翟県の人。祖先は後漢初に隴西から移った。字は佐治。兄に辛評。子に辛敞、娘に辛憲英。潁郷侯、諡は肅侯。

  1. 潁川郡陽翟の人で、字は佐治。祖先は後漢の初めに隴西から潁川へ移った。兄の辛評とともに袁紹に仕えた。曹操が司空だったとき辟召したが、辛毗は応じなかった。
  2. 袁紹の死後、袁譚と袁尚が後継を争った。建安8年(203年)、袁譚が袁尚に平原で攻められ、辛毗を使者に曹操へ救援を求めた。このとき辛毗と郭図の家族は袁譚のもとを無事に出られたが、辛評の家族だけが捕らえられた。
  3. 曹操は荊州を討つために西平にいた。辛毗が袁譚の意を伝えると曹操は大いに喜んだが、数日後、先に荊州を平らげて袁氏兄弟を自滅させようと考えを改めた。宴の席で辛毗はその顔色から変心を察し、郭嘉に告げて曹操へ伝えさせた。
  4. 曹操が「譚は信じられるか。尚には必ず勝てるのか」と問うと、辛毗は「信か詐かは問われますな。形勢だけを論じてください」と答えた。兄弟は連年戦い、兜には虱が湧き、旱魃と蝗害で蔵に穀物もなく、行軍にも糧がない。「天が袁尚を明公に与えようとしているのに、取らずに荊州を伐たれるのか」と迫り、「荊州は豊かで国内に変事がない。いま乱れ、いま亡びようとしているのは袁氏です」と説いた。曹操は「善し」と答え、黎陽へ軍を進めた。諸将は疑ったが、荀攸が賛成した。
  5. 建安9年(204年)、曹操は鄴を攻めた。審配は城楼から曹軍が入るのを見て、辛評・郭図が冀州を壊したと恨み、獄に人を走らせて辛評の一家を殺させた。辛毗は城門が開くと獄へ駆けつけたが、兄の家族はすでに殺されていた。
  6. 縛られた審配が連れて来られると、辛毗らは馬鞭で頭を打ち、「奴め、お前は今日こそ死ぬのだ」と罵った。審配は振り向き、「狗の輩め。お前たちが冀州を破ったのだ。殺せないのが恨みだ。お前に私の生死が決められるのか」と言い返した。曹操は審配を生かしたい様子だったが、審配は屈せず、辛毗らも号泣して止まず、結局斬られた。鄴平定後、辛毗は議郎に任じられた。
  7. 建安22年(217年)、曹丕が魏の太子に立てられた。曹丕は喜びを隠せず、辛毗の首に抱きついて「辛先生、私の喜びがわかりますか」と言った。辛毗が娘の辛憲英にこの話をすると、憲英は魏の先行きに不安を覚えたと伝わる。
  8. 曹操は曹洪を下辯へ遣わすとき、辛毗と曹休を参軍事に付け、「昔、高祖は財と色を好み、張良・陳平が過ちを正した。いま佐治と文烈(曹休)の担う荷は軽くない」と述べた。のち丞相長史となった。
  9. 建安25年(220年)、曹操が没すると、辛毗は桓階らとともに曹丕へ禅譲を勧める上書をした。曹丕が即位すると侍中、関内侯となった。暦の改定を議したときは、「魏は舜・禹の禅譲に従う。商湯・周武は戦で天下を取ったから正朔を改めた。孔子も夏の暦を用いよと言った」と述べ、曹丕は従った。
  10. 曹丕が雉狩りで「射雉は楽しいな」と言うと、辛毗は「陛下にはまことに楽しくても、臣下にはまことに苦しゅうございます」と答えた。曹丕は黙り込み、以後は狩りを減らした。
  11. 黄初元年(220年)ごろ、曹丕は冀州の士家10万戸を河南へ移そうとした。蝗害と飢饉のさなかで、群臣は反対したが、曹丕の意志は固かった。辛毗が朝臣とともに諫めに行くと、曹丕は怒りの顔で「お前たちとは議論しない」と突っぱねた。辛毗は「臣を側近にお置きになった以上、国の大事は臣に諮られるべきです。私事ではなく社稷の憂いです」と言い、曹丕が奥へ入ろうとすると、衣の裾をつかんで離さなかった。
  12. 曹丕は衣を振りほどいて奥へ入ったが、しばらくして出てくると、「佐治、お前はなぜそう強く私を押さえるのか」と言った。辛毗は「いま移せば民心を失い、食べさせる糧もありません」と答えた。曹丕は半分の5万戸を移すにとどめた。この話は後に『辛毗引裾』と呼ばれ、隋の楊契丹が絵に描き、唐の『蒙求』にも収められた。
  13. 黄初3年(222年)、曹真が呉の朱然を江陵に攻めたとき、辛毗は軍師として従った。のち曹丕が自ら呉を討とうとすると、辛毗は「古の南越の尉佗も公孫述も長続きしなかった。天下はまだ落ち着かず、人口も少ない。范蠡・管仲のように民を養い、趙充国のように屯田をして十年ほど待てば、無敵になる」と諫めた。曹丕が「お前の言う通りなら、敵を子孫に残すのか」と言うと、辛毗は「周の文王は商の紂王を武王に任せました。時勢を知っていたからです」と答えた。曹丕は聞かず、長江を前に引き返した。
  14. 曹叡の代になると、辛毗は潁郷侯に進んだ。中書監の劉放と中書令の孫資が寵臣となり、朝臣が皆取り入るなか、辛毗は彼らに愛想も見せず、公平に事を裁いた。子の辛敞が「少し身を低くなさらないと、必ず謗られます」と案じると、辛毗は「天子は聡明とは言えないが、愚かでもない。私は私の道を立てる。劉・孫と合わなくても、三公になれないだけだ。大丈夫が三公の名のために節を摧けるものか」と言った。
  15. 畢軌が、尚書僕射の王思に代えて辛毗を推した。曹叡が劉放・孫資に問うと、二人は「辛毗は高い節がありますが、性質が剛直で専断です」と答え、辛毗は僕射にならず、衛尉となった。
  16. 曹叡が宮殿を大いに造営すると、辛毗は「連年不作の折に造営を続けるべきではない」と諫めた。曹叡は「呉も蜀も滅ぼせていない今、造営を諫める者に名を取らせてやるのだ」と答えたが、辛毗は退かなかった。曹叡が芒山を削って高台を築き、孟津を望もうとしたときも、辛毗は「天地にはもとの姿があり、高いものは高く、低いものは低くあるべきです。まして大河が溢れれば丘も平らになります」と諫め、曹叡は中止した。
  17. 青龍2年(234年)、諸葛亮が五丈原に出て、司馬懿は守りに徹した。諸葛亮が女物の衣装を贈って挑発すると、魏の諸将は恥じて出撃を求め、司馬懿も上表して戦を請うた。曹叡は将軍たちが命令を聞かなくなることを恐れ、辛毗を大将軍軍師として節を持たせて前線へ送った。諸将は辛毗の剛直さを知っていたため、軍中は静まった。司馬懿が何度請うても、辛毗は厳しく拒んだ。
  18. 蜀の姜維は諸葛亮に「辛佐治が節を持って来ました。敵はもう出てこないでしょう」と言った。諸葛亮は「司馬懿にはもともと戦う気がない。それでも請うのは部下に武を示すためだ。将が軍にあっては君命も受けない場合がある。勝てるのなら千里の先まで戦を請うまい」と答えたと伝わる。
  19. 辛毗は衛尉のまま没し、諡は肅侯。のち魏の文帝(曹丕)の廟に配享された。同郷の陳群・杜襲・趙儼とともに『辛・陳・杜・趙』と並び称された。娘の辛憲英は知恵で名高く、外孫に羊琇、女婿に羊耽がいる。
  20. 陳寿は辛毗と楊阜を「剛亮公直、正諫して身を顧みず、漢の汲黯の高風に及ぶ」と評した。一方、『魏略』は、張郃が死んで曹叡が嘆いたとき、辛毗が「国に足りないのは一人の張郃ではない」と陳群を責めた話を伝える。裴松之は、将の死を祖宗にたとえるのは辛毗らしくなく、『魏略』は信じがたいと退けている。

主な出典
『三国志』魏書 辛毗伝(百度百科が引く本文)、裴松之注『先賢行状』『魏略』、『資治通鑑』、日本語版・英語版Wikipediaの記述

Wikipediaで見る ↗

SOUL ALIGNMENT

人物像の分類:秩序・善

法と筋を曲げず、五丈原でも節を持って命令を守らせた行動から、規律は高めに置いています。

飢饉の年の民の移住を止め、造営や狩猟の負担を諫めた行動から、動機は他者寄りの側に置いています。

このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。

ABOUT THE CHRONICLE

強さではなく、生き方を。

48問・8つの性格軸・108人の人物データを使用しています。回答の平均値と人物プロフィールの距離で順位を決め、知名度で優先しません。一致度は8軸の回答と人物データの近さを百分率で表したもので、科学的な確率ではありません。

アラインメントについて

史料に基づく人物像の解釈には幅があり、この分類は暫定的なものです。史料の記述と本サイトによる解釈を区別し、人物ごとの説明では分類の理由を紹介しています。人物ごとの出典の裏付けには差があります。Wikipediaのリンクがあることだけで、動機の解釈が確定するものではありません。

人物側は、個人・組織・他者のどれを行動の主目的と捉えるかを個別に設定しています。分類ごとの人数は、人物像の違いによって異なります。史実上の内心や善悪の判定ではありません。プレイヤーの回答は人数比に合わせて補正せず、そのまま計算します。プレイヤーのアラインメントは初期状態では非表示です。説明を読んで表示を選んだ場合だけ、画面・保存画像・コピーテキスト・Xの投稿文に含まれます。「規律」だけを秩序/中立/混沌、「動機」だけを善/中立/悪に対応させ、独立に判定します。3.25以上を秩序・善、2.75以下を混沌・悪とします。人物とユーザー診断には同じ判定範囲を適用します。中立は2.75より大きく3.25より小さい値で、境界の2.75・3.25は含みません。境界付近の人物は2.75・3.25で表し、混在する動機のうち本作で少し重視する側を示します。分類名の追加による加点はありません。

善=自分の損得と無関係に他者のために動くこと、悪=自分個人の利益のために動くこと。組織や家が主目的の場合、または主な動機を一方に決められない場合は中立です。複数の動機があっても、他者支援・個人利益のどちらが主目的か明確なら4・2で表します。ルールを守って個人の利益を求める「秩序・悪」、ルールを破って他者を助ける「混沌・善」の両方が成立します。実際の道徳性を測るものではなく、史実上の人物の善悪も断定しません。人物紹介は、人物タイプと8つの性格軸から読み解く、本サイト独自の人物像です。

収録は108名です。魏28名・蜀28名・呉28名・群雄ほか20名・晋4名で、勢力は魏・蜀・呉・群雄ほか・晋の5分類です。診断を終えた回答は、このタブのセッション内に保持します。サーバーへ送信しません。再読み込み後も「自分の診断結果へ」から戻れます。ブラウザが保存を制限する場合は再読み込みで失われます。再診断を選ぶと保持した結果を削除します。

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「善・中立・悪」は行動の動機を表すゲーム用の分類で、実際の道徳性を測るものではありません。

アラインメントは8軸のうち「規律」と「動機」の2軸だけで決まります。一致度は8軸全体で計算するため、一致度の高い人物と分類が異なる場合があります。

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