CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
蹋頓
辺境の騎馬を束ね、亡命者を受け入れた人
蹋頓は、烏桓の幼い後継者に代わって三王の部をまとめ、袁紹と結んで公孫瓚を破った人物です。『三国志』は、険しい土地を頼みに亡命者を受け入れ、辺境の長老が冒頓になぞらえたと記します。ここでは、衆を従わせる統率と、頼ってきた者を拒まなかった判断を、性格を読み解く手がかりとしています。
烏桓の大人。丘力居の甥で、幼い楼班に代わって部族をまとめた。袁紹と結び、のち逃れてきた袁尚をかくまって、曹操に討たれた。
THE WAY OF LIFE
蹋頓の生き方
広い草原で、人と馬を束ねて動かす。蹋頓は、機を見る計略と、衆を従わせる統率力を併せ持つ人物像です。
頼ってきた者を受け入れ、大国と正面から向き合った。統率の高さと、表現の控えめさに、その実行力を重ねています。
持ち味と、その裏側
多くの部族をまとめる統率力と、計略を立てて動く判断力。一方で、頼ってきた者を受け入れた結果の重さも考え、味方と敵の大きさを見極めることも大切です。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年不詳〜建安12年(207年)
遼西烏丸の人。烏桓の大人。丘力居の甥。
- 遼西の烏丸の大人・丘力居の甥(従子)。丘力居が死に、子の楼班がまだ幼かったため、武略のある蹋頓が後を継いだ。三王の部をまとめ、衆はみな蹋頓の命に従った。
- 袁紹と公孫瓚が戦って決着がつかないとき、蹋頓は使者を送って和親を求め、袁紹を助けて公孫瓚を破った。
- 袁紹は詔を偽って、蹋頓らに印綬を与え、単于に任じた。『英雄記』は、謁者の楊林が単于の璽綬と車服を携えて授けたとし、蹋頓の肩書きを「烏丸遼西率衆王」と記す。
- のち楼班が成長すると、峭王らは楼班を単于に奉じ、蹋頓は王となった。それでも蹋頓は、多くの計策を立てたという。
- 袁紹の死後、敗れた袁尚が蹋頓を頼った。『三国志』は、蹋頓は驍武で、辺境の長老は蹋頓を匈奴の冒頓になぞらえ、険しい土地を頼みに亡命者を受け入れて、百蛮に雄となった、と評す。
- 建安12年(207年)、曹操は蹋頓と袁尚を断つため、柳城へ北征した。『武帝紀』によれば、大雨で海沿いの道が使えなくなると、田疇の案内で盧龍塞から山を切り開いて進み、白檀・平岡を経て柳城へ向かった。『烏丸伝』は、曹操が道を潜めて進んだが、柳城まで百余里のところで烏丸に気づかれた、と記す(『武帝紀』は二百里)。袁尚は蹋頓とともに凡城で迎え撃ち、兵馬は盛んだった。曹操は高みから敵陣を見下ろし、小さな動きを見極めたのち、これを撃ち破った。蹋頓は陣頭で首を斬られた。『武帝紀』は、八月に白狼山で不意に敵と遭遇し、曹操が張遼を先鋒として攻めかかり、蹋頓と名王以下を斬り、降った胡・漢は二十余万口に及んだ、と記す。『三国志』曹純伝は、三郡への北征で曹純の部下の騎兵が単于の蹋頓を捕らえた(獲)と記し、誰が討ったかは伝によって書き方が分かれる。(烏丸伝は「建安十一年」とするが、武帝紀・公孫度伝は十二年)
- 楼班・烏延らは遼東へ逃れたが、遼東の公孫康にことごとく斬られ、首が送られた。のち幽州・并州の烏丸一万余落が中国に移され、曹操の軍に従った。三郡の烏丸は「天下の名騎」と呼ばれた。
主な出典
『三国志』魏書 烏丸鮮卑東夷伝(裴松之注に引く『英雄記』を含む)、魏書 公孫度伝
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:真なる中立
部族の慣習に従い、必要なら大国とも手を結んだ姿から、規律は中間寄りとしています。
部族を守る立場と、袁氏に義理を立てた行動の両面から、動機は中立に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。