CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
趙韙
劉璋を立てながら、反旗を翻した益州の重臣
趙韙は、益州巴西郡安漢県の人です。中央で太倉令を務めていましたが、劉焉が益州牧に任じられると、官を棄てて従いました。劉焉の死後は、王商らとともに温和な劉璋を後継に立て、征東中郎将に任じられます。劉焉が連れてきた「東州兵」が益州の住民を苦しめ、劉璋にはこれを抑える力がなく、趙韙はたびたび諫めたと伝わります。建安5年(200年)、荊州と和睦を結び、地元の豪族と手を結んで反乱を起こしました。しかし東州兵が一丸となって戦って敗れ、翌年、部下の龐楽・李異の裏切りによって斬られます。経歴は『三国志』蜀書 劉焉伝・劉璋伝をもとにしています。
益州巴西郡の人。劉焉に従って益州へ入り、劉焉の死後は劉璋を立てた。のち東州兵への不満から反乱を起こしたが、味方の裏切りで斬られた。
THE WAY OF LIFE
趙韙の生き方
不満を溜め、機を見て一気に動く。趙韙は、強い決断力と、軍を動かす統率力を併せ持つ人物像です。
主君を立てながら、その主君を見限った。決断と挑戦の高さと、信条の低さに、その行動力と、立場の移ろいやすさを重ねています。
持ち味と、その裏側
劉璋を立てた決断力と、益州の人々を束ねる力。一方で、温和な劉璋の弱さに苛立ち、諫言が通らないと反乱へ走るなど、思いの強さが手荒な動きにつながり、味方の裏切りを招きました。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
?年〜建安6年(201年)
益州巴西郡安漢県の人。別名は趙穎とも。
- 益州巴西郡の人。中央で太倉令を務めていたが、劉焉が益州牧に任じられると、官を棄てて従った。
- 劉焉の死後、王商らとともに、温和な劉璋を後継に立てた。朝廷から征東中郎将に任じられ、荊州の劉表を討つよう命じられた。
- 興平2年(195年)、巴郡を三つに分けるよう建議し、認められた。益州で大きな力を持つようになった。
- 劉焉が連れてきた「東州兵」は、益州の住民を苦しめたが、劉璋にはこれを抑える力がなかった。趙韙は、たびたび諫めたが、劉璋は聞き入れなかったと伝わる。
- 建安5年(200年)、趙韙は、荊州に賄賂を送って和睦を結び、地元の豪族と手を結んで、反乱を起こした。蜀郡・広漢郡・犍為郡が呼応した。
- 劉璋は成都に退いて守った。東州兵は、趙韙が勝てば自分たちが滅びると恐れ、一丸となって戦い、趙韙を破って江州まで追った。
- 翌建安6年(201年)、趙韙は、部下の龐楽・李異の裏切りによって、斬られた。
主な出典
『三国志』蜀書 劉焉伝・劉璋伝、同注引『英雄記』
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:中立・悪
官職を持ちつつ、最後は主君に反旗を翻した姿から、規律は中間に置いています。
地元の益州人の立場と、自分の権勢の両方が絡んだ動きから、動機は個人寄りに置いています。善悪を断定するものではありません。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。