CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
趙氏貞
呉の支配に挙兵したと伝わる交州の女性(趙嫗)
趙氏貞は、呉の赤烏11年(248年)に、交州で挙兵したと伝わる女性で、趙嫗とも呼ばれます。ただし『三国志』呉書の陸凱・陸胤伝には、趙嫗の名はありません。東晋の『交州記』(のち類書に引用)やベトナム側の史書に記録があり、詳しい物語は、後世のベトナムの小説や近代の著作で広まったものです。実在したかどうかも、研究では慎重に扱われています。ここでは、確実な記録の少なさを踏まえた暫定の値を置いています。
呉の赤烏11年(248年)に交州で挙兵したと伝わる女性。趙嫗とも呼ばれる。『三国志』には名がなく、東晋の『交州記』(類書に引用)やベトナム側の史書に記録がある。詳しい物語は後世の小説や近代の著作によるもので、実在の検証は難しい。
THE WAY OF LIFE
趙氏貞の生き方
呉の支配に対して、山中で党を結び、郡県を攻めたと伝わる。挑戦の高さを、この記録に置いています。
詳しい人物像は、後世のベトナムの伝承が中心で、値は暫定のものです。
持ち味と、その裏側
古い記録は、山中で党を結んで郡県を攻略した人物として伝える。のちのベトナムでは、抵抗の英雄として語られた。ただし、詳しい姿は後世の伝承によるもので、確かな持ち味は特定できません。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生没年未詳(248年に挙兵と伝わる)
九真郡軍安県(今のベトナム清化省)の人と伝わる。『交州記』は『軍安県の女子趙嫗』と記す。別名は趙夫人・趙氏貞。
- 『三国志』呉書 陸胤伝は、赤烏11年(248年)に、交阯・九真の夷賊が城邑を攻め落とし、交州が騒動になったと記す。陸胤は交州刺史・安南校尉に任じられ、恩信で諭して、賊帥百余人、民五万余家が降った。この本文に、趙嫗の名はない。
- 東晋の劉欣期の『交州記』は、この反乱の首領を、九真郡軍安県の女子の趙嫗とする。乳房が数尺あった、嫁がなかった、山に入って群盗を集め、しばしば九真郡を攻めた、と記す。『太平寰宇記』は、さらに『象の頭に居て戦った』と補う。どちらも、賊の頭目として、誇張と否定を交えた書き方である。
- 『大越史記全書』は、戊辰(248年)の九真の反乱と、趙嫗の挙兵を、一つの出来事としてまとめる。陸胤が趙嫗を平らげたと記し、引用する『交趾志』は、趙嫗が戦いで死に、死後に神となったと伝える。
- 趙嫗は、のちベトナムで神として祀られた。梁末の李賁が『弼正夫人』と封じ、李朝は『英烈夫人』、陳朝は『雄才』『英敏』『偉績』『貞一』などの号を加えた。祠は清化省にあり、2014年に国家特別遺跡、2023年に祠の廟会が国家無形文化遺産に指定された。
- ベトナムの小説『粤甸幽霊集』の『麗海婆王記』は、本名を貞とし、兄の趙国達と暮らし、『波を越え、海の鯨を斬りたい。人の妾にはならない』と言ったと記す。兄の死後に首領となり、『蕊嬌将軍』と号し、陸胤を七十余戦で破って、『麗海婆王』と呼ばれた。陸胤が、兵に裸で戦わせて破り、趙氏貞は23歳で自刎した、という筋になっている。これは小説の物語で、『三国志』には全くない。
- 阮朝の阮福時は、『ベトナムの女子には雄奇な者が多く、趙嫗も二徴夫人の類である。ただし、乳房の長さは怪しく、笑うべき話だ』と評した。
- 『三国志』に名がなく、中国側の古い記録は賊の頭目として記し、ベトナム側は英雄とする。詳しい人物像は後世の物語によるもので、実在の議論も慎重に扱われている。
主な出典
『三国志』呉書 陸胤伝(趙嫗の名なし)、劉欣期『交州記』(『太平広記』『太平御覧』所引)、『太平寰宇記』、『大越史記全書』、『粤甸幽霊集』(小説)、日本語版Wikipediaと百度百科の記述
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:混沌・中立
朝廷の支配に反して挙兵したと伝わるため、規律は低めに置いています。
確実な記録が乏しく、動機を一方に定められないため、中間に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。