CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
趙儼
諸将の不和を収め、軍を一つに束ねた曹魏の調停役
趙儼は、字を伯然といい、潁川陽翟の人で、若くして辛毗・陳群・杜襲とともに名を知られ、「辛・陳・杜・趙」と並び称されました。荊州に避難した際は劉表の招きを断り、建安元年(196年)に曹操が献帝を許に迎えたと聞くと、杜襲・繁欽らとともに北へ帰ります。官渡のころには、張遼・楽進・于禁の不和を調停して三軍を統べ、建安13年(208年)に都督護軍として七軍を統率しました。建安24年(219年)の樊城の包囲では、徐晃の救援を助けています。河東太守・度支尚書などを歴任し、正始6年(245年)に没しました。経歴は『三国志』魏書 和常楊杜趙裴伝をもとにしています。
潁川阳翟の人。字は伯然。若くして辛毗・陳群・杜襲とともに名を知られ、「辛・陳・杜・趙」と並び称された。荊州に避難した際、劉表の招きを断り、196年に曹操が献帝を許に迎えると、杜襲・繁欽らとともに北へ帰った。朗陵長から司空府に入り、張遼・楽進・于禁の不和を調停したのち、都督護軍として諸将を統率した。魏の文帝の代には河東太守・度支尚書などを歴任し、正始6年(245年)に没した。謚は穆侯。
THE WAY OF LIFE
趙儼の生き方
張遼・楽進・于禁の不和を調停し、三将の積もった怨みを解いた。以後は都督護軍として七軍の諸将を統率する役を担う。関中では兵の反乱が起きた際、首謀者のみを処罰し、他の者は問わずに軍を収めた。
樊城の包囲では、徐晃の救援に加わり、援軍を待ちつつ関羽を孤立させる策を示した。関羽が撤退すると、曹仁の追撃を止め、孫権との関係を重んじた。ただし、兵を欺いて千人を留めた処置は、孫盛から「信を以て終えるべきだ」と批判された。『三国志演義』には登場しない。
持ち味と、その裏側
諸将の利害を見て、感情を収めて和解させる調整力。兵の離反に際しては、自ら説得して軍を動かさずに鎮めた。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
171年〜245年(正始6年)
潁川阳翟(現在の河南省禹州市)
- 171年(推定): 潁川阳翟に生まれる。
- 196年(建安元年): 荊州で劉表の招きを断る。曹操が献帝を許に迎えたことを聞き、杜襲・繁欽とともに北へ帰る(『三国志』)。
- 197年(建安2年): 朗陵長となる。悪質な豪族を捕らえて死罪に問うが、郡に上申して解放させ、恩威を並び立てる(『三国志』)。
- 200年(建安5年): 阳安郡で李通を説き、袁紹の招撫に応じず、租税の綿絹を民に返還させる(『三国志』)。
- 官渡の頃: 張遼・楽進・于禁の不和を調停し、参軍として三軍を統べる(『三国志』)。
- 208年(建安13年): 章陵太守となり、都督護軍として七軍を統率する(『三国志』)。
- 211年(建安16年): 関中護軍として殷署らとともに羌を破り、陳倉の反乱を鎮める(『三国志』)。
- 219年(建安24年): 樊城の包囲に際し、徐晃の救援を助け、曹仁の追撃を止める(『三国志』)。
- 220年以後(黄初年間): 侍中・駙馬都尉を経て、河東太守となる。後任として寡婦の徴発を行い、杜畿に「生きた人の妻を集めた」と皮肉られたと伝わる(『三国志』)。
- 245年(正始6年): 没する。謚は穆侯。葬儀で夏侯玄の遅参に客が席を越えて迎えたことが、司馬師の反感を買う(『三国志』)。
主な出典
『三国志』魏書 和常楊杜趙裴伝第二十三(裴松之注に孫盛の評を含む)。『三国志演義』には登場しない。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
規律4のため秩序。兵の反乱も処罰を首謀者に限り、統率を回復させた。
諸将の対立を鎮め、軍の統一を保つことを重んじた。動機は善として扱います。ただし、兵を欺いて千人を留めた策は、後世に信義を欠くと批判された。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。