CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
賈逵
曹操の死に際して曹彰を退けて魏を支え、仲の悪い曹休を石亭で救った魏の刺史
賈逵は、字を梁道といい、河東郡襄陵県の人で、初名は賈衢です。子どもの頃、遊びでよく軍の陣立てを並べ、祖父は「お前は大きくなれば必ず将帥になる」と言って、兵法を口授しました。絳邑の県長のとき、建安7年(202年)に郭援に捕らえられましたが、「国家の長吏が、どうして賊のために叩頭するか」と叱りつけ、吏民が助命を叫んで救われます。曹操に重く用いられ、曹操の死に際しては、曹彰に璽綬の所在を問われて、「太子は鄴に在り」と退けました。豫州刺史として吏治を正し、太和2年(228年)の石亭の敗戦では、曹休を救って、その帰途で没します。経歴は『三国志』魏書 賈逵伝をもとにしています。
字は梁道。河東郡襄陵県の人。絳邑の県長として郭援に捕らえられても叩頭せず、曹操に重く用いられた。曹操の死に際しては曹彰に璽綬の所在を問われ、『太子は鄴に在り』と退けた。豫州刺史として吏治を正して『真の刺史』と呼ばれ、太和2年(228年)、石亭の敗戦で曹休を救って没した。
THE WAY OF LIFE
賈逵の生き方
曹操に諫めて牢に入れられても、自分から『発案は私だ』と進み出た。危ない場面ほど迷わず前に出る人です。
貧しくて袴もなく、妻の兄の袴を履いて帰った若い日のことも、屈託なく世に知られた。信条は最高に置いています。
持ち味と、その裏側
捕らえられても主君への礼を曲げず、危機の場面ほど先に動く胆力。曹操の死後の混乱でも、曹彰を退け、青州兵を鎮めて太子を迎えた判断。豫州で法を正し、運河と水利を整えた実務。私怨のある曹休を危地から救った度量。一方で、屯田都尉の足を折って免官されたり、曹休と激しくやり合ったりと、剛直さが衝突を生んだ。表現は、人柄に比べて自分を語る記録が少ないため中程度に置いています。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
建安(174年または175年)〜太和2年(228年)
河東郡襄陵県の人。字は梁道。初名は賈衢。祖父は賈習。子に賈充・賈混。孫に賈黎民・賈南風らがいる。陽里亭侯、諡は肅侯。
- 河東郡襄陵の人で、字は梁道。初名は衢。代々の名家に生まれたが、幼くして孤児となり、貧しく、冬に袴も持たなかった。妻の兄の柳孚の家に泊まった翌朝、何食わぬ顔で柳孚の袴を履いて帰ったことが『魏略』に伝わり、人々は彼を『通健(抜け目がなく、屈託がない)』と呼んだ。
- 子どもの頃、遊びでよく軍の陣立てを並べた。祖父の賈習は不思議に思い、「お前は大きくなれば必ず将帥になる」と言い、兵法数万言を口授した。
- はじめ郡吏となり、絳邑の県長を務めた。建安7年(202年)、袁尚が曹操と黎陽で対峙しているとき、河東太守を名乗る郭援が并州刺史の高幹、南匈奴の単于とともに攻め込み、通る城をすべて落とした。賈逵だけは堅く守って落ちなかったため、郭援は単于を呼んで急攻した。
- 城が破れそうになったとき、絳の父老は郭援と『賈逵は殺さない』と約束した。賈逵が捕らえられると、郭援はその名を聞いて将にしようと、兵で脅した。賈逵は動かなかった。側近が叩頭を強いると、賈逵は「国家の長吏が、どうして賊のために叩頭するか」と叱りつけた。郭援は怒って斬ろうとしたが、絳の吏民は城に登って「約束を破って我らの賢君を殺すなら、ともに死ぬ」と叫んだ。側近も義として命乞いし、賈逵は救われた。
- 『魏略』は別の話を伝える。郭援は賈逵を壺関の土窖に閉じ込めて車輪で蓋をし、殺そうとした。賈逵は穴の中から見張りに「ここに壮士はいないのか。義士をこの中で死なせるのか」と叫んだ。祝公道という者が哀れんで、夜に枷を壊して逃がしたが、名は明かさなかった。後に祝公道が連座で死刑になりかけたとき、賈逵は手を尽くしたが救えず、自ら喪に服した。なお欧陽脩は、碑文に絳の人々の約束の記述がないとして、『三国志』の描写を疑っている。
- 賈逵は皮氏を通ったとき、「争う地は先に占めた者が勝つ」と言っていた。城が危うくなると、印綬を密かに郡へ送り返し、「急いで皮氏を占拠せよ」と伝えさせた。さらに郭援の参謀の祝奥を計略で惑わせ、郭援を7日間足止めした。郡は賈逵の言に従って皮氏を押さえ、敗北を免れた。
- のち茂才に推され、澠池県令となった。高幹が反乱を起こすと、張琰がこれに応じようとした。賈逵はその謀を知らずに訪ねたが、変を察し、捕らえられないよう、張琰の謀に加わるふりをして策を出した。張琰が信用すると、城の守りを固めるという名目で兵を借り、蠡城に戻って、反乱を謀る者たちを一人ずつ捕らえて誅した。そして城を修めて張琰を拒み、張琰は敗れた。
- 建安16年(211年)、曹操が馬超を討つため弘農に着き、「ここは西道の要だ」と言って賈逵を弘農太守にした。曹操は賈逵と語って大いに喜び、側近に「天下の二千石が皆賈逵のようなら、私は何を憂えよう」と言った。
- のち徴発の人数が足りず、屯田都尉が逃げた民をかくまっていると疑って詰め寄った。都尉は自分は郡の管轄ではないと言い、言葉も不遜だった。賈逵は怒ってこれを捕らえ、足の骨を折ったため、罪を得て免官された。しかし曹操は賈逵を惜しみ、丞相主簿に任じた。
- 建安19年(214年)、孫権が皖城を陥して朱光が捕らえられた。曹操は呉を南征しようとしたが、雨季で将士は行きたがらなかった。曹操は「諫める者は死刑にする」と命じた。賈逵は同僚の主簿3人に「実際に出てはならない。諫めなければならない」と言い、諫言の草稿を見せて署名させた。曹操が激怒して誰が言い出したかと問うと、賈逵はすぐに「私が発案しました」と進み出て、自ら獄に向かった。
- 獄吏は賈逵が丞相主簿なので、すぐに械を着けなかった。賈逵は「早く着けよ。尊者(曹操)は私が近くに仕えているから、私が緩めを頼むと思っている。すぐに人をよこして見に来るだろう」と言った。械を着け終わると、果たして曹操は家人を獄に遣わして様子を見させた。曹操は「逵に悪意はない」と言い、元の職に戻した。
- 賈逵は『春秋左氏伝』を最も好み、太守になってからも月に一度は読み返した。弘農で典農校尉と争って道理が通らず、憤激して首に瘿(こぶ)ができた。切除を願い出ると、曹操は「瘿を割く者は十人のうち九人が死ぬと聞く」と言って惜しんだ。
- 建安24年(219年)、曹操が劉備討伐のため斜谷に向かう前、賈逵は先に地形を見に行き、水衡都尉が数十台の車に囚人を載せて護送している場面に出会った。軍情が急だとして、最も重い罪の者1人だけを処刑し、残りはすべて放免した。曹操はこれを褒め、諫議大夫に任じて、夏侯尚とともに軍計を掌らせた。
- 建安25年(220年)、曹操が洛陽で没した。太子の曹丕は鄴にいて、洛陽の軍民は労役と疫病に苦しみ、軍は統帥を失って騒いでいた。群臣は喪を伏せようとしたが、賈逵は反対し、使者を各地に出して喪を発し、内外の官員を弔問させた。青州兵は鼓を鳴らして勝手に去ろうとした。群臣は禁じて従わぬ者を討つべきだと言ったが、賈逵は「大喪の最中で嗣王は未だ立たない。今は慰撫すべきだ」と言い、長檄を作り、途中の官に食糧を支給させた。騒ぎはそれで収まった。
- 曹丕より先に、弟の曹彰が長安から兵を率いて洛陽に駆けつけ、「先王の璽綬はどこか」と賈逵に尋ねた。賈逵は厳しい顔で、「太子は鄴におられる。国には後継ぎがおられる。先王の璽綬は君侯のお尋ねになることではありません」と答えた。曹彰は何も言えなかった。賈逵は夏侯尚とともに曹操の遺体を鄴へ送り、曹丕を魏王・丞相に迎えた。
- 曹丕は賈逵の恩を忘れず、即位すると鄴県令に任じ、魏郡太守に進めた。着任前、郡の属官が賈逵の家の門前に並んで拝したが、賈逵は「着任して拝するのでも遅くはない。今はこうすべきではない」と制した。賈逵が連座で罪に問われそうになったとき、曹丕は「叔向の功は十代の子孫まで赦された。まして逵は自ら功徳を立てたではないか」と言って赦した。
- 曹丕が呉征伐を装って南に向かったとき、賈逵は黎陽で渡河の順番を争って乱れた兵の数人を斬り、秩序を戻した。譙に着くと豫州刺史に任じられ、賈逵は「臣は宮門を守って出入りすること6年、いま外に出ます。どうか百姓を念い、天と人の期待に背かないでください」と言った。
- 当時、州郡の法は緩んでいた。賈逵は着任して数か月後、前の刺史の時に休暇を取って遅れて職務に戻った兵曹従事の件を機会に、州内で私情に流されて法に従わない二千石以下の役人を詰問し、すべて弾劾して罷免した。強者を抑え、利を興し弊を除いたため、曹丕は「賈逵は真の刺史だ」と称え、天下に布告して、各州に豫州のやり方を真似させた。
- 賈逵は国境の砦を整え、鎧や武器を修繕して呉に備え、境内で山を切り開いて水を貯め、小弋陽陂を築き、運渠200余里を通した。人々はこれを『賈侯渠』と呼んだ。黄初3年(222年)、曹休の下で呉を攻め、洞浦で呂範の部隊を破り、陽里亭侯、建威将軍を加えられた。
- 太和元年(227年)、曹叡が即位し、食邑は合わせて400戸になった。賈逵は、豫州から長江に至る水路を開いて東関を攻めれば、孫権の東西の戦線を分断できると構想し、潦口に軍を移して曹叡に上奏した。曹叡はこれを大いに喜んだ。
- 太和2年(228年)、呉の鄱陽太守の周魴が、孫権に罪を得たと偽って魏に降ると曹休に密書を送った。大司馬の曹休は十万の兵を率いて皖へ迎えに出た。曹叡は賈逵に満寵・胡質ら4軍を督させ、西陽から東関に向かわせた。賈逵は五将山に着いたとき、曹休が孤軍で深入りしていると見て、呉は東関に備えがない、必ず皖に兵を集めている、休は敗れると予想した。
- 蔣濟の進言を受け、曹叡は賈逵に曹休と合流するよう詔した。賈逵は水陸で進み、200里余りで呉兵を捕らえて尋問し、曹休が敗れたことを知った。孫権は陸遜を大都督に、朱桓・全琮を左右の都督に任じ、石亭で曹休を包囲して破っていた。曹休は夾石まで退いたが、孫権の兵に退路を遮られ、全軍壊滅の危機にあった。
- 賈逵の将士は、深入りを避けて後続の援軍を待つべきだと言った。賈逵は「大司馬は外で敗れ、内で退路を断たれ、進んでも戦えず、退いても戻れない。呉は後方に援軍がないと知って大胆に追っている。いま急いで夾石に着き、不意を突けば、呉は我が軍を見て必ず退く。援軍を待てば、呉は険路をすべてふさぐ。そのときに兵が多くても何になるか」と答えた。
- 夾石に近づくと、山の口の要所に旗を多く立て、少数の兵に太鼓を絶えず鳴らさせて疑兵とし、自ら大隊を率いて迎え撃つ構えを取った。呉は魏の救援の大軍が来たと見て撤退した。賈逵は夾石を占領し、食糧と軍需品を出して曹休の軍に供給し、揚州へ退かせた。
- 曹休は救援が遅れたと恨み、賈逵を叱りつけ、大司馬の名で棄てた兵器を拾い集めるよう命じた。賈逵は「国家のために豫州刺史を務めているのであって、大司馬のために棄てた兵器を拾いに来たのではない」と言い、独りで軍を引いて帰った。二人は互いに上表して相手を弾劾したが、曹叡は両者に過失はないとした。
- 曹休は宗室であることを頼んで賈逵を軽んじていた。曹丕がかつて賈逵に符節を授けようとしたとき、曹休は「賈逵は性が剛直で、常に諸将を軽んじる。一方を都督させるべきではない」と妨げた。それでも賈逵は、石亭の救援で過去の怨みを持ち出さなかった。習鑿歯は、私怨を忍んで人の憂いを急ぎ、危険を冒して救ったことを、義によって敵の心を愧じさせる『善く争う者』と評した。
- 同じ年、賈逵は任地で病に倒れた。54歳(一説に55歳)。病中に「国の厚い恩を受けながら、孫権を斬って先帝にお目にかかれないのが恨みだ。葬儀は一切飾るな」と言ったという。諡は肅侯。豫州の吏民は碑を刻み、祠を建てた。
- 青龍年間、曹叡は東征の途中で賈逵の祠に立ち寄り、「逵は生きて忠勲があり、死して慕われる。死して朽ちずと言えよう」と詔した。甘露2年(257年)、曹髦も祠を訪ねて修復を命じた。嘉平3年(251年)、反乱に失敗した王凌が護送中に祠の前を通り、「賈梁道、王凌が大魏の忠臣であることを知っているのはお前だけだ」と叫び、毒を飲んで自殺したと伝わる。
- 賈逵と同郷の孫資は友人で、孫資が病を理由に出身郡からの徴命を断ろうとしたとき、賈逵は「郷里が困難な今、郷里を重んじるべきだ」と説得して応じさせた。のち孫資は丞相府で賈逵を、絳邑での節を引いて推した。子の賈充は、曹魏から晋への移行で大きな役割を果たした。諸葛誕は、賈充が魏の禅譲を支持していると聞き、「お前は賈逵の子ではないのか」と叱ったと伝わる。
主な出典
『三国志』魏書 賈逵伝(百度百科が引く本文)、裴松之注『魏略』『魏書』、欧陽脩『集古録』の疑義、日本語版・英語版Wikipediaの記述
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
法を曲げた官吏を弾劾し、軍紀を乱した兵を斬り、曹彰の求めにも筋を通した行動から、規律は高めに置いています。
私怨のあった曹休を救い、民に慕われて祠が建てられた行動から、動機は他者寄りの側に置いています。
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