CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
賈充
晋の礎を築き、曹髦の死にも関わった重臣
賈充は、字を公閭といい、司馬師・司馬昭・司馬炎の三代に仕え、西晋の建国と泰始律令の編纂に関わった人物です。一方で、260年に魏の皇帝・曹髦が殺害された事件では、実行した成済の行動を促したと、複数の史料が記しています。司馬昭が事前に殺害を命じていたかどうかは確かめられないため、本文、裴注、『晋書』、『演義』を分けて扱います。
字は公閭。賈逵の子。司馬氏三代に仕え、西晋の建国と律令の編纂に関わった。曹髦の殺害では、成済に行動を促したと伝わる。217年〜282年。
THE WAY OF LIFE
賈充の生き方
魏に忠実に仕えた賈逵の子として生まれ、父の爵位を継ぎました。のちに司馬師・司馬昭の腹心となり、諸葛誕の動向を探り、曹髦の事件にも加わります。晋が成立したあとは、律令の編纂を担う一人になりました。
「ただの奸臣」と書けば、法制や建国への働きが消えます。「晋を成した功臣」とだけ書けば、皇帝の死への関わりを軽くしてしまいます。政治と法制に力を発揮することと、司馬氏のために皇帝の殺害に関わることは、どちらも史料に残る事実として並べて扱います。
持ち味と、その裏側
上位者の意向を読み、与えられた役目を確実に果たすこと。律令の編纂のような、地道で集団的な仕事を任されたこと。一方で、『晋書』が諂媚による立身と批判するとおり、意向に沿うことを優先するあまり、魏の皇帝の死に関わる役まで引き受けることになったと考えられます。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
217年〜282年(太康3年)
字は公閭。平陽郡襄陵県の人。賈逵の子。
- 賈逵の晩年の子で、幼くして父を亡くし、服喪中の孝行で知られた。父の爵位を継いだ(『晋書』)。『三国志』に独立した伝はなく、賈逵伝の末尾に「咸熙年間に中護軍となった」とだけ記される(本文)。
- 255年、毌丘倹・文欽の乱で司馬師に従って従軍した。司馬師が病で許昌へ戻る際、軍務の監督を任された(『晋書』)。
- 257〜258年の諸葛誕の乱では、司馬昭の命で寿春の諸葛誕を訪ね、禅譲への考えを尋ねた。諸葛誕は魏への忠義を表明して反発した。帰還後、早く召還すべきだと進言した(裴注『世語』『魏末伝』『晋書』)。訪問時の会話は本文にない。賈充が意図的に反乱を誘発したと断定することはできない。
- 反乱の鎮圧では、深い塹壕と堅固な陣地を築く策を進言し、採用されたと記される(『晋書』)。
- 260年、曹髦が司馬昭の討伐に動いた事件で、南闕で迎え撃ったのは中護軍の賈充だった(裴注『漢晋春秋』)。陳寿の本文は「高貴郷公卒」とだけ記し、賈充も成済も名が出ない。
- 成済への指示は史料ごとに表現が異なる。『魏末伝』は「殺すか、捕らえるか」と問われ、賈充が「殺せ」と答えたと記す。『漢晋春秋』と干宝『晋紀』は表現が異なるが、賈充が成済の行動を促した点で一致する。会話の一字一句は復元できない(裴注)。
- 司馬昭が事前に殺害を命じたとは確定できない。『晋書』文帝紀は、司馬昭が賈充らに防備を命じたと記す。陳泰は賈充を腰斬にすべきだと主張したが、結局、処刑されたのは成済だった(『晋書』)。
- 264年、鍾会の反乱に際し、関中・隴右の諸軍事を都督して漢中方面へ向かったが、到着前に鍾会は死亡した(『晋書』)。賈充が直接鎮圧したわけではない。
- 司馬昭の後継をめぐり、年長で寛仁な司馬炎の継承を支持した。司馬昭は晩年、司馬炎に「汝を知る者は賈公閭なり」と語ったとされる(『晋書』)。
- 265年、司馬炎が晋を建国。賈充は車騎将軍・尚書僕射となり、魯郡公に封じられた(『晋書』)。
- 泰始律令は、司馬昭の命に始まる集団の編纂事業で、賈充は鄭沖・荀顗・荀勖・羊祜・杜預・裴楷らとともに中心を担った。267年に上奏し、268年に20篇620条の律を公布した(『晋書』刑法志)。賈充一人の仕事ではない。
- 関中方面への派遣が決まりかけたとき、荀勖の助言で娘の賈南風を皇太子司馬衷の妃にし、中央に留まった(『晋書』)。のちの賈南風の政治的混乱を、父の計画や人格の影響と断定することはできない。
- 279〜280年の呉討伐で大都督に任じられたが、年齢や財政・軍事上の懸念から反対し、辞退を願い出た。押し切られて襄陽に駐屯した。呉軍が敗れ始めても撤兵を進言したが、杜預が強く反論した。孫皓の降伏後、処罰を申し出たが、司馬炎は厚遇した(『晋書』)。呉の攻略は杜預・王濬らの働きが大きく、賈充一人の軍功とは言えない。
- 282年(太康3年)、66歳で没した。太宰を追贈され、諡号は「武」。博士の秦秀は「荒」を提案したが、武帝は採らなかった(『晋書』)。病名は不明。
- 『晋書』は、法に通じて冤罪を正した点を評価する一方、上位者の意向を読んで諂媚で立身したとも批判する。巻末の史臣評は唐代の編纂者の評価で、同時代の総意とは言えない。
- 後世の扱い:『三国志演義』第114回では、賈充が司馬昭の命令だとして曹髦の殺害を指示する場面に脚色される。成済が処刑の際に賈充を非難する場面や、司馬昭の涙の描写も物語上の演出で、正史の記録とは分けて読む。
主な出典
『晋書』巻40 賈充伝、巻2 文帝紀、巻30 刑法志、巻31 后妃伝。『三国志』魏書 巻15 賈逵伝(裴注『晋諸公賛』)、巻4 高貴郷公紀(裴注『漢晋春秋』『魏氏春秋』『魏末伝』『晋紀』)、巻28 諸葛誕伝(裴注『世語』『魏末伝』)。『三国志演義』第114回。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・悪
司馬氏の政権を支え、律令の整理にも関わった姿から、規律は秩序寄りに置いています。動機が個人寄りのため、全体の位置づけは秩序・悪になります。
本人の内面は史料から断定できません。行動を見ると、魏の皇帝を守る側ではなく司馬氏の権力を支える側に立ち、曹髦の事件では成済の行動を促しました。関中への派遣を避けるため娘を太子妃にした経緯も『晋書』に記されます。こうした点から、動機は個人寄りに置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。