CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
費詩
関羽を諫め、君主にも直言した蜀漢の剛直な諫臣
費詩は、字を公挙といい、犍為郡南安県の人です。劉璋のもとで綿竹県令を務め、建安18年(213年)に劉備が綿竹に迫ると、城を挙げて降りました。建安24年(219年)、劉備が漢中王になると、関羽に前将軍を授ける使者となり、黄忠と同列に並ぶことを嫌う関羽を諫めて受けさせます。章武元年(221年)には、劉備の即位に上疏して反対し、永昌従事に左遷されました。諸葛亮の南征に従い、諸葛亮の没後は蒋琬のもとで諫議大夫となって、家で没します。関羽にも君主にも直言した、蜀の剛直な諫臣です。経歴は『三国志』蜀書 霍王向張楊費伝をもとにしています。
犍為郡南安県の人。字は公挙。劉璋に仕えて綿竹県令を務めたが、劉備が綿竹に迫ると、いち早く城を挙げて降った。劉備が益州牧となると督軍従事に任ぜられ、牂柯太守、益州前部司馬へ進む。219年、漢中王となった劉備の命で関羽に前将軍を授けた際、黄忠と同列に並ぶことを嫌う関羽を諫めて受けさせた。221年には劉備の即位に上疏して反対し、永昌従事に左遷される。諸葛亮の南征に従い、諸葛亮没後は蒋琬の下で諫議大夫となったが、家で没した。
THE WAY OF LIFE
費詩の生き方
関羽が黄忠と同列の任命を拒んだ際、蕭何・曹参と韓信の例を引き、劉備と関羽は一体であって官位を争うべきではないと説いた。関羽は感悟して任命を受けた。大義を示して相手の自尊心を立てる論法が特徴である。
221年、群臣が劉備の即位を勧めた際、「大敵が滅びぬうちに自立すれば人心が疑う」と上疏し、左遷された。諸葛亮が孟達との書簡を送ろうとした際も、「節操のない者に書を送る価値はない」と諫めた。陳寿はその直言が用いられなかったことを惜しみ、常璩も「直を率いて陵遅す」と記す。『三国志演義』では、糜芳・傅士仁の失火に関羽が怒った場面で費詩が諫め二人を救うが、これは演義の脚色で史書にはない。
持ち味と、その裏側
大義を示して相手の立場を立てる説得力と、君主の意向に逆らってでも言うべきことを言う胆力。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生没年不詳(蒋琬の時代に没)
犍為郡南安県(現在の四川省楽山市)
- 劉璋の下で綿竹県令を務める(『三国志』)。
- 213年(建安18年): 劉備が綿竹に迫ると、城を挙げて降る(『三国志』)。
- 214年(建安19年): 劉備が益州牧となり、督軍従事に任ぜられる。のち牂柯太守、益州前部司馬(『三国志』)。
- 219年(建安24年): 劉備の漢中王即位に伴い、関羽に前将軍を授ける。黄忠との同列を嫌う関羽を諫め、受けさせる(『三国志』)。
- 221年(章武元年): 劉備の即位に上疏して反対し、永昌従事に左遷される(『三国志』)。
- 225年(建興3年): 諸葛亮の南征に従い、孟達との書簡に反対する。諸葛亮は北伐のため書簡を送る(『三国志』)。
- 諸葛亮没後: 蒋琬の下で諫議大夫となり、後に家で没する(『三国志』)。
主な出典
『三国志』蜀書 霍王向張楊費伝第十一(裴松之注を含む)、『華陽国志』巻五 公孫述劉二牧志。『三国志演義』第65・73・91回。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
規律4のため秩序。君臣の礼と大義を基準に、君主の過ちを正そうとした。
主君の正統と蜀漢の大義を守るため、自らの立場を顧みずに諫めた。動機は善として扱います。ただし、主君の意に逆らうことを厭わない姿勢は、君臣の和を損ねたとも読める。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。