CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
譙周
蜀の降伏を進言し、『蜀中の孔子』と呼ばれながら功罪を問われ続けた学者
譙周は、字を允南といい、巴西郡西充国の人です。幼くして父を亡くし、家は貧しかったものの、産を治めることは考えず、典籍を読んでは会心して笑い、寝食を忘れました。建興12年(234年)、諸葛亮が没したとき、弔問を禁じる詔のなかでただ一人速く駆けつけています。景耀6年(263年)、鄧艾が迫ると、呉への逃亡や南へ逃れる案を退け、降伏を進言して、劉禅は従いました。門下に陳寿・李密らがいて、『蜀中の孔子』と呼ばれましたが、その功罪は今も問われ続けています。泰始6年(270年)に亡くなりました。経歴は『三国志』蜀書 譙周伝をもとにしています。
字は允南。巴西郡西充国の人。幼くして父を亡くし、家貧しくも書を愛して産を治めなかった。諸葛亮の死に際しては、禁令の中ただ一人速く駆けつけた。景耀6年(263年)、鄧艾が迫ると奔呉・南行の議を退けて降伏を進言し、劉禅は従った。晋の泰始6年(270年)に没した。門下に陳寿、李密らがいる。
THE WAY OF LIFE
譙周の生き方
初対面の諸葛亮の側近に笑われても気にせず、読書に没頭して寝食を忘れた学者。人当たりは素朴で飾らない人です。
鄧艾が成都に迫るなか、衆議を前に降伏を説き切った。決断は高く置いていますが、その選択の評価は大きく分かれます。
持ち味と、その裏側
古籍に通じた深い学識と、天文・術数の見立てを自分の推論と言い切る率直さ。劉禅への上疏、仇国論、降伏論と、必要な場面で筋道を立てて論じる力。諸葛亮の死に駆けつけた行動力。一方で、機転の利いた弁論は得意でなく、軍務や実務には関わらなかった。挑戦と統率は低めに置いています。降伏の進言については、民を救ったとする見方と、国を滅ぼしたとする見方があり、動機はどちらの評価にも踏み込まず、本人の言葉と晋の評価に沿って置いています。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年不詳〜泰始6年(270年)
巴西郡西充国(現在の四川省閬中の西南)の人。字は允南。別名は『蜀中孔子』。子に譙熙・譙賢・譙同。弟子に陳寿・李密・文立・羅憲・杜軫。陽城亭侯。
- 巴西郡西充国の人で、字は允南。幼くして父を失い、母と兄と暮らした。古籍を好み、家は貧しかったが、産を治めることは考えず、典籍を読んでは会心して笑い、寝食を忘れた。六経に通じ、草書の手紙に巧みで、天文にも詳しかったが、そこに力は入れなかった。諸子の書は好まず、広くは読まなかった。
- 陳寿は、身長八尺、衣服や見た目は質素で、性は誠実で飾らず、とっさに弁じる才はないが、深く知り、心の反応は速い、と記す。
- 建興年間、諸葛亮が益州牧を領すると、譙周を勧学従事に任じた。『蜀記』は、初めて亮に見えたとき、側近が彼の姿を見て笑ったと伝える。譙周が出た後、担当の役人が笑った者を罰しようとしたが、亮は「私ですら耐えきれなかった。まして彼らが耐えられようか」と言ったという。
- 若いころは秦宓を訪ねて教えを請い、その言論を『春秋然否論』に記した。まだ地位の低かったころ、人々は当世の才ではないと見て軽んじたが、楊戯だけは「我らの後の世は、ついにこの長児(譙周)に及ばない」と評した。
- 建興12年(234年)、諸葛亮が五丈原で没したとき、譙周は家でこれを聞き、すぐに奔喪に向かった。大臣が弔問に行くことを禁じる詔が出たが、譙周は速く出たため辿り着けた。蔣琬が益州刺史を領すると、譙周は典学従事に移り、州の学者を統べた。
- 延熙元年(238年)、劉禅が劉璿を太子に立てると、譙周は太子僕、家令となった。劉禅はよく外へ遊びに出て、音楽を増やしていた。譙周は上疏して、後漢の光武帝が民の訴えを聞き、倹約し、法度に従って北州の歓声を得た例を引いた。そして、先帝の志を継ぐ者が楽しんでいる時ではない、楽官や後宮の増築を減らして先帝の施設を修めるよう願った。中散大夫に移り、なお太子に侍した。
- 譙周は天文・術数について杜瓊に教えを請うた。杜瓊は「術は知れば天機を漏らすのを恐れるから、見ないほうがよい」と答えつつ、『当涂高』は魏を指すという周群の説や、官名に『曹』が増えたことを例に挙げた。譙周はこれを自分の説に発展させ、『劉備の備は具、劉禅の禅は授。劉氏はすでに具わり、他人に授ける』と、晋の穆侯や漢の霊帝の子の名の例を引いて、不吉だと論じた。
- 景耀5年(262年)、宦官黄皓が権勢を振るい、宮中の大樹が理由なく折れた。譙周は深く憂い、語り合う相手もなく、柱に『曹は衆、魏は大。衆にして大なれば天下は集う。具にして授く、何ぞ復せん』という意味の言葉を書いた。蜀が滅んだ後、人々は的中したと言ったが、譙周は「自分の推論で、杜瓊の説から広げたに過ぎない。神秘的な感覚はない」と述べたと伝わる。
- 景耀元年(258年)ごろ、蜀は連年出兵して民は疲弊していた。譙周は尚書令の陳祗と得失を論じ、朝を退いてから『仇国論』を書いた。のち光禄大夫に移り、位は九列に次ぐが、政事には関わらなかった。儒者として礼遇され、大議があるときは経に拠って答え、後進の学者たちも疑問を問いに来た。
- 景耀6年(263年)冬、鄧艾が江油を陥し、陰平から長駆してきた。蜀は敵がそこまで来ないと思っており、城の守りも整えていなかった。民は山野に逃げ散り、止められなかった。劉禅が群臣を集めて計を問うたが、誰も案を出せなかった。ある者は呉へ逃れることを、ある者は南中7郡に入ることを勧めた。
- 譙周は「古来、他国に身を寄せて天子であった者はない。呉へ行けば臣として従うことになる。政の理が同じなら大が小を呑むのは自然の数だから、魏が呉を併せることはあっても、呉が魏を併せることはない。同じ臣になるなら大国のほうがよい。再び辱めを受けるより、一度の辱めで済ませたい」と述べた。さらに「南へ行くなら早く準備すべきだった。いま大敵が近く、下の者の心は一つも保証できない。出発の日に変が起きるだろう」と説いた。
- 群臣の一人が「艾が降伏を受けなかったらどうするのか」と詰めた。譙周は「いま呉はまだ魏に服していないから、艾は降伏を受けざるを得ず、受けたら礼遇せざるを得ない。もし魏が陛下に土地を割いて封じなければ、私が自ら洛陽へ赴き、古の義によって争う」と答えた。誰も反論できなかった。
- 劉禅がまだ南行を迷っていると、譙周は上奏した。南中は遠く、もともと貢ぎを出さず、諸葛亮が兵で屈服させた怨みがあるから、また反乱を起こす。北軍はそのまま追ってくる。軍の費用を南の民に求めれば反乱が早まる。光武帝の時に邳肜が語った言葉のように、民が離れる恐れがある。最後に、微子が紂王の庶兄ながら自ら縛り璧を含んで周に降ったのは、望んだことではなく、やむを得なかったのだ、と述べた。劉禅は従い、鄧艾に降った。
- 咸熙元年(264年)、司馬昭は譙周に国を保った功があるとして、陽城亭侯に封じた。また書で洛陽に召したが、譙周は漢中まで行って病で進めなくなった。咸熙2年(265年)の夏、文立が洛陽から蜀に帰る途中に見舞うと、病で話せない譙周は板に『典午忽兮、月酉没兮』と書いた。典午は司馬、月酉は8月の意で、8月に司馬昭が死んだ。
- 晋の泰始3年(267年)、譙周はついに病を押して洛陽に着いたが、起き上がれず、騎都尉を授けられた。譙周は無功で爵を受けたことを恥じ、爵土を返すよう願ったが、許されなかった。泰始5年(269年)、陳寿が郷里を去る際に別れを告げに来ると、譙周は「孔子は72、劉向と揚雄は71で没した。私はすでに70を過ぎ、後年には必ず世を去るだろう」と言った。
- 泰始6年(270年)秋、司馬炎は散騎常侍に任じたが、病篤く拝命できず、冬に没した。詔は、蜀の滅亡に際して劉禅に帰順を勧めたことを『忠君济民の謀がある』と称え、朝服一具、衣一襲、銭15万を賜った。譙周は子の譙熙に、「朝廷が衣服を賜っても身に着けてはならない。軽い棺にして運び、葬儀が済んだらすべて返上せよ」と遺言したという。
- 評価は大きく割れる。陳寿は、詞理は深く通じ、世の碩儒であり、董仲舒・揚雄の規範がある、と評した。司馬炎は、中道に閑居して危うい国に仕えなかったと評し、蜀の滅亡に際して劉禅に帰順を勧めた働きを嘉した。一方、孫盛は君主に偷生を勧めたことを批判し、王夫之は『仇国論』を含めて人心を解散させたと厳しく非難した。袁枚は詩で白髪の譙周が降伏の文書を書く姿を詠んだ。
- なお『三国志』先主伝は、劉備の即位を勧めた者の中に譙周の名を挙げるが、本伝では建興年間に勧学従事となったとあり、年齢も合わない。顧炎武は、当時の譙周は20代で加わっていないとし、沈家本は周群の誤りかとする。陳寿ら多くの門下を育て、故郷の南充には譙周を祀る祠と墓が残る。
主な出典
『三国志』蜀書 譙周伝(百度百科が引く本文)、『蜀記』、各史家の評、日本語版・英語版Wikipediaの記述
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
儒者として礼と筋道を重んじ、朝廷の意見が割れたときも根拠を示して論じた行動から、規律は高めに置いています。
民を戦火から守るという言葉と、爵位を辞して自分の功を認めなかった態度から、動機は他者寄りの側に置いています。ただし、この判断が後世の評価を二分している点には触れておきます。
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