CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
諸葛誕
部下に慕われ、司馬氏に刃向かった魏の名将
諸葛誕は、字を公休といい、徐州琅邪郡陽都県の人で、諸葛亮・諸葛瑾と同族です。夏侯玄らと親しく、「八達」の一人と称され、のち揚州刺史となり、255年の毌丘倹・文欽の乱では寿春を押さえて呉の孫峻の軍を退けました。司馬昭の専横を警戒して民や兵の心を得ることに力を入れ、257年、司空として都に召されると、これを身の危険と見て寿春で挙兵します。呉の救援を受けましたが、司馬昭の26万の軍に囲まれ、疑いから文欽を殺して城内が動揺し、258年2月、脱出を図って斬られました。部下の数百人は「諸葛公のために死ぬ」と言って斬られたと伝わります。経歴は『三国志』魏書 諸葛誕伝をもとにしています。
魏の重臣。夏侯玄の友人で、のち司馬昭の専横を警戒して257年に寿春で挙兵し、258年に敗れた。
THE WAY OF LIFE
諸葛誕の生き方
人の心をつかみ、決めたときは迷わず挑む。諸葛誕は、強い決断力と、部下に慕われる人望を併せ持つ人物像です。
勝ち目の薄い戦いでも退かない。挑戦の高さと、規律の低さに、その熱さと危うさを重ねています。
持ち味と、その裏側
広い名声と、兵や民の心をつかむ力。思い切って挑む決断力と、揚州を長く治めた実務力。一方で、疑いと焦りから味方を切り、孤立しやすくなります。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
?年〜甘露3年(258年)
徐州琅邪郡陽都県の人。字は公休。諸葛亮・諸葛瑾と同族。
- 尚書郎から滎陽県令などを経て、中央で吏部郎・御史中丞・尚書を歴任した。夏侯玄らと親しく、「八達」の一人と称された。董昭に弾劾されて免職となり、このころの話が「絵に描いた餅」の成語の元になったとされる。
- 曹叡の死後に復職し、243年に揚州刺史・昭武将軍となった。252年の東興の戦いで丁奉に敗れたのち、鎮南将軍・都督豫州に移った。
- 254年、夏侯玄らの計画が失敗して、親しかった人々が次々に処刑された。
- 255年、毌丘倹・文欽の乱が起こると、鎮東大将軍として寿春を押さえ、攻めてきた呉の孫峻の軍を退けた。
- 司馬昭の専横を警戒して、民や兵の心を得ることに力を入れた。257年、司空として都に召されると、これを身の危険と見て、5月に挙兵し、楽綝を殺して寿春にこもった。
- 末子の諸葛靚らを呉に送って救援を求め、呉からは大司徒・驃騎将軍・青州牧・寿春侯に任じられ、3万の兵が来た。文欽らも加わった。
- 司馬昭は26万の軍で寿春を囲んだ。文欽が北方の兵を城外に出すよう提案したが、諸葛誕は受け入れず、疑いから文欽を殺した。城内は動揺し、降伏する兵が増えた。
- 258年2月、総攻撃を受けて脱出を図ったところを、胡奮に斬られた。三族は処刑された。部下の数百人は「諸葛公のために死ぬ」と言って斬られ、田横に従った者たちにたとえられた。
- 『三国志演義』では、司馬昭に反旗を翻して寿春にこもり、呉の救援を受けるが敗れる魏の将として描かれる。
主な出典
『三国志』魏書 諸葛誕伝・同注引『世語』、『世説新語』、『三国志演義』
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:混沌・善
朝廷の命令より、自分の判断と部下への情を優先して動いた姿から、規律は裁量寄りとしています。
部下の兵に慕われ、その兵が最期まで従った姿から、動機は利他寄りに置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。