CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
諸葛瞻
鄧艾の降伏勧告を斬り捨て、綿竹で子の諸葛尚とともに戦死した諸葛亮の子
諸葛瞻は、字を思遠といい、諸葛亮の子で、劉禅の娘を妻としました。建興12年(234年)、諸葛亮は兄の諸葛瑾へ、「瞻は今8歳、聡明で愛らしいが、早く成熟しすぎて、大器にならないのではと心配だ」と書き送っています。のち軍師将軍となり、朝廷に善い政令が出ると、人々は「葛侯のなさったことだ」と言い合いましたが、『三国志』は、美名が実際を超えた、と記します。景耀6年(263年)冬、鄧艾の侵攻を迎え撃ちましたが、黄崇の進言を採れずに綿竹へ退きました。降伏の誘いを退けて戦い、子の諸葛尚とともに戦死します。経歴は『三国志』蜀書 諸葛亮伝(諸葛瞻附伝)をもとにしています。
字は思遠。諸葛亮の子で、劉禅の娘を妻とし、人々に父の面影を重ねられて軍師将軍、平尚書事に進んだ。景耀6年(263年)、鄧艾の侵攻を迎えたが、黄崇の進言を採れず、綿竹まで退いた。降伏の誘いを退けて戦い、子の諸葛尚とともに戦死した。
THE WAY OF LIFE
諸葛瞻の生き方
蜀の人々は、諸葛亮を慕い、その子の瞻に好意を寄せた。実際に関わっていない善政まで、瞻の功にされたと伝わる、期待を背負った人物です。
鄧艾が琅邪王への推挙を約して降伏を勧めると、使者を斬って戦った。信条は最高に置いています。
持ち味と、その裏側
諸葛亮の子として人々の期待を集めた人望と、書画に巧みな才、記憶力。降伏の誘いを退けて最後まで戦った信念。一方で、朝政では黄皓の専横を正せず、涪で黄崇の進言を採らずに迷い、要害を押さえる機を逃した。『三国志』や裴松之注は、期待が実力を上回ったと評し、構想と挑戦は低めに置いています。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
建興5年(227年)〜景耀6年(263年)
琅邪郡陽都県の人(成都の生まれ)。諸葛亮の子。字は思遠。武郷侯。劉禅の娘を妻とした。子に諸葛尚・諸葛京。
- 建興5年(227年)、諸葛亮が46歳のときに生まれた。建興12年(234年)、諸葛亮は武功に出陣中、兄の諸葛瑾へ「瞻は今8歳、聡明で愛らしいが、早く成熟しすぎて、大器にならないのではと心配だ」と書き送った。『誡子書』を残して没し、瞻は武郷侯を継いだ。
- 延熙6年(243年)、17歳で蜀の公主(劉禅の娘)を妻とし、騎都尉となった。翌年に羽林中郎将となり、射声校尉・侍中・尚書僕射を経て、軍師将軍を加えられた。書画に巧みで記憶力に優れたため、蜀の人々は諸葛亮を慕う気持ちから瞻の才をことのほか愛した。
- 朝廷に善い政令が出ると、瞻が提案したものでなくても、民が「葛侯(諸葛瞻)のなさったことだ」と言い合った。『三国志』は、このため美名が実際を超えた、と記す。
- 延熙16年(253年)、呉の諸葛恪が東興で魏を破って大規模な出兵を企てた。侍中だった瞻のもとへ、張嶷が、大軍を動かせば災いを招くと書き送った。諸葛恪は同年に大敗して帰り、孫峻に殺された。
- 景耀4年(261年)、瞻は行都護・衛将軍となり、輔国大将軍の董厥とともに尚書台の政務を執り、侍中の樊建が尚書令を守って、三人で国政を統べた。宦官の黄皓が権勢を振るい、大臣たちは黄皓に迎合し、正す者はいなかった。樊建だけは黄皓と交わらなかった。
- 廖化が宗預を誘って瞻を訪ねようとしたとき、宗預は「我々は70を過ぎ、得るものは十分に得た。あとは死ぬだけだ。若い者に何を求めて苦労することがあろう」と言い、行かなかった。
- 景耀5年(262年)、姜維が北伐に敗れて帰ると、黄皓は姜維を廃して右大将軍の閻宇を立てようとし、姜維も黄皓を恐れて成都へ戻らなくなった。孫盛『異同記』は、瞻が董厥らと、姜維は戦を好んで功がなく国を疲れさせるとして、姜維を益州刺史にして兵権を奪い、閻宇を代わりに立てるよう上表したと記す。蜀の古老には「諸葛瞻が閻宇を姜維に代えようとした」話が残っていた。
- 景耀6年(263年)冬、魏の征西将軍・鄧艾が陰平から景谷道を抜けて侵入した。瞻は尚書の張遵(張飛の孫)、尚書郎の黄崇(黄権の子)、羽林右部督の李球(李恢の甥)を率いて迎え撃った。
- 瞻は涪県まで進んで足を止め、黄崇が何度も、すばやく要害を押さえて敵を平野に出さないよう勧めたが、瞻はためらって採らなかった。黄崇は失策を嘆いて号泣したと伝わる。鄧艾は一気に進み、蜀軍の前鋒は破られ、瞻は綿竹へ退いた。
- 『元和郡県志』は、鄧艾が江油に入ったとき、瞻が「内は黄皓を除けず、外は姜維を抑えられず、進んでも江油を守れなかった。私には三つの罪がある。何の面目で帰れよう」と悲憤して綿竹に進み、「足を埋めて戦った」(死不旋踵)と伝える。
- 鄧艾は書を送り、「降伏すれば、必ず上表して琅邪王に封じよう」と誘った。瞻は大いに怒って使者を斬り、軍を出して戦った。黄崇は将兵を励ましたと伝わり、李球は命を投げ出して戦った。
- 瞻は綿竹で陣を整え、鄧艾が、鄧忠を右から、師纂を左から攻めさせると、二人とも瞻に打ち破られ、「敵は破りがたい」と報告した。鄧艾は怒り、「生死存亡は、この一挙にある。何が不可能か」と、斬ろうとした。二人は再び出撃し、蜀軍を破った。瞻と張遵らは戦死し、瞻は37歳だった。
- 長子の諸葛尚は、敗北を知ると、「我ら父子は国の厚恩を受けながら、早く黄皓を斬らず、このような惨敗を招いた。何の面目で生きていられよう」と嘆き、敵陣に突入して戦死した。鄧艾は瞻の首級を魏の都へ送った。
- 咸熙元年(264年)、次子の諸葛京は、同族の諸葛顕(諸葛攀の子)らとともに河東郡へ移された。のち諸葛京は晋に仕え、江州刺史に至った。
- 晋の泰始4年(268年)、蜀人の王富が、諸葛瞻に似ていると言われたため、「諸葛都護」を名乗って反乱を起こした。蜀の人々は、戦死したあとも諸葛父子を思い、瞻は死んでいないという噂まで立てたと伝わる。
- 評は分かれる。諸葛亮は「大器にならないのでは」と心配した。魏の鍾会は蜀の人材に書を送り、「足下と諸葛思遠は、草木にたとえれば、私と同類(気類)だ」と記した。干宝は「智は危機を支えるに足りず、勇は敵を拒むに足りないが、外は国に背かず、内は父の志を改めず、忠孝は残った」と評した。司馬炎は「諸葛亮は蜀で心力を尽くし、その子瞻は難に臨んで義に死んだ。天下の善は一つだ」と述べたと伝わる。
- 一方、王応麟『困学紀聞』は、朱熹が瞻と尚の死節を記そうとしたのに対し、張栻が、瞻は将相を兼ねながら黄皓を除く諫めを尽くさず、聞かれなければ身を退くこともしなかったと批判した、と伝える。蔡東藩は、黄崇の議を採らず、敵を深く入れた失策は瞻の咎だとし、毛宗岗は、瞻・尚が死んだことで、武侯(諸葛亮)の志は死ななかった、と評した。
- 陳寿が、諸葛瞻の下で働いたときに辱められたため、『三国志』で瞻を貶めたとする説が、常璩『華陽国志』に伝わる。ただし、百度百科はこれを「説」として挙げるにとどまり、確認は難しい。綿竹には諸葛瞻父子の墓祠(諸葛双忠祠)があり、成都の武侯祠と対をなす。
主な出典
『三国志』蜀書 諸葛亮伝(諸葛瞻附伝)、『元和郡県志』、孫盛『異同記』、百度百科(『三国志』『晋書』の引用を含む)、英語版Wikipediaの記述
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
朝廷の上に立ちながら独断に走らず、降伏を拒んで国に殉じた行動から、規律は高めに置いています。
降伏の誘いを退け、国のために子とともに戦死した行動から、動機は他者寄りの側に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。