CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
諸葛恪
頭の回転が速すぎて、足元を見失う秀才
諸葛恪は、字を元遜といい、諸葛瑾の子で、諸葛亮の甥にあたります。幼いころから機転の利く子として知られ、孫権を驚かせる逸話が多く残ります。嘉禾3年(234年)、丹陽太守となって山越の討伐を3年で成し遂げ、4万人あまりの兵を得ました。神鳳元年(252年)には孫権の死に際して後事を託され、東興の戦いで魏軍を撃破します。ところが建興2年(253年)、20万の兵で魏へ侵攻したものの、合肥新城の包囲中に疫病が広がって撤退し、同年10月、宴席で孫峻に殺されました。経歴は『三国志』呉書 諸葛恪伝をもとにしています。
諸葛瑾の子で、機知に富んだ呉の秀才。孫権の遺詔を受けて権力を握るが、のち暗殺された。
THE WAY OF LIFE
諸葛恪の生き方
考えが速く、言葉も鋭い。諸葛恪は、才気と自信にあふれ、人を驚かせる機転を持つ人物像です。
大きな成功を狙って動く一方で、周囲への気配りは後回しになりやすい。構想と挑戦、表現の高さに、その鋭さを重ねています。
持ち味と、その裏側
とっさに切り返す機転と、大きな局面でも自分の案を押し通す自信。一方で、自信が強いほど周囲の反発を招きやすいため、人の意見を受け止める余白も大切です。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
建安8年(203年)〜建興2年(253年)
字は元遜。徐州琅邪郡陽都県の人。諸葛瑾の子。
- 諸葛瑾の子で、諸葛亮の甥。幼いころから機転の利く子として知られ、孫権を驚かせる逸話が多い。
- 嘉禾3年(234年)、丹陽太守となり、山越の討伐を3年で成し遂げて4万人あまりの兵を得ると上申した。
- 赤烏9年(246年)に大将軍となり、神鳳元年(252年)、孫権の死に際して後事を託された。
- 建興元年(252年)12月、東興の戦いで魏軍を撃破した。
- 建興2年(253年)、20万の兵で魏へ侵攻し、合肥新城を包囲したが、疫病が広がって7月に撤退した。同年10月、孫峻に宴席で殺された。
主な出典
『三国志』呉書 諸葛恪伝
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:混沌・悪
決まりや慣例より、自分の判断と才覚で動く姿から、規律は裁量寄りとしています。
才を認められたい思いと、自らの功名を求める姿から、動機は利己寄りに置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。