CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
諸葛尚
父とともに綿竹で鄧艾に敗れ、「何の面目で生きよう」と魏軍へ馬を駆って散った諸葛亮の孫
諸葛尚は、諸葛亮の孫で、諸葛瞻の長子、劉禅の外孫にあたります。景耀6年(263年)の冬、鄧艾が陰平から蜀へ侵入すると、父に従って綿竹の陣にいました。『漢晋春秋』によれば、父が敗死したと知ると、「父子は国の厚恩を受けながら、早く黄皓を斬らず、このような惨敗を招いた。何の面目で生きていられよう」と嘆き、馬を駆って魏軍に突入して戦死します。史書に残る事績はほぼこの場面だけで、若いころの人柄は伝わりません。『演義』では、兵書に通じた少年で、降伏勧告にためらう父を詰め寄る筋書きに脚色されています。経歴は『漢晋春秋』と『三国志演義』をもとにしています。
諸葛亮の孫で、諸葛瞻の長子。劉禅の外孫にあたる。琅邪郡陽都県の人。景耀6年(263年)、鄧艾の侵攻に、父とともに綿竹で戦った。父が敗れて戦死したと知ると、「父子は国の厚恩を受けながら、早く黄皓を斬らず、このような惨敗を招いた。何の面目で生きていられよう」と嘆き、魏軍に突入して戦死した。史書に残る事績はほぼこの場面だけで、若いころの人柄や、戦での働きは伝わらない。
THE WAY OF LIFE
諸葛尚の生き方
敗戦の知らせを受けて、「父子は国の厚恩を受けながら、早く黄皓を斬らず、このような惨敗を招いた」と嘆き、そのまま魏軍へ馬を駆って突入した。迷いのない最期です。
後世は、祖父の諸葛亮に重ねて、父子の忠烈を称えた。この記録では、構想や統率を測る材料は乏しく、決断と信条を高く置いています。
持ち味と、その裏側
敗北を知った瞬間に、生き延びる道を選ばず、責任の言葉を口にして突入した決断。降伏の誘いを退けた父の志を、最後まで継いだ信念。祖父と父の名に恥じない死に方で、蜀の最期を象徴する場面を残した。一方で、先鋒としての武勇や、鄧忠・師纂を退けた働きは演義の筋で、史書では確かめられない。構想は低め、統率と表現は中程度に置いています。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年不詳(244年とする説)〜炎興元年(景耀6年・263年)
琅邪郡陽都県(現在の山東省沂南県)の人(成都の生まれとされる)。諸葛亮の孫、諸葛瞻の長子。外祖父は劉禅。弟に諸葛京・諸葛質。
- 諸葛亮の孫で、諸葛瞻の長子。琅邪郡陽都県の人で、成都で生まれたとされる。母は劉禅の娘で、劉備から見て外曾孫にあたる。字は伝わらない。
- 生年を延熙7年(244年)とするのは、後世の整理による。『三国志』の記述から確かめられるのは、景耀6年(263年)に綿竹で戦死したことだけである。享年は18歳とされるが、19歳とする記述もある。
- 景耀6年(263年)の冬、魏の征西将軍・鄧艾が陰平から景谷道を抜けて蜀へ侵入した。諸葛瞻は、張遵・黄崇・李球らを率いて迎え撃ち、涪から綿竹へ退いた。諸葛尚は、父に従って綿竹の陣にいた。
- 鄧艾は、降伏すれば琅邪王に封じようと書を送った。諸葛瞻は大いに怒り、使者を斬って戦った。鄧艾の子の鄧忠と師纂が攻めて、いったんは退けられたが、鄧艾に叱られて再び攻め、蜀軍は敗れた。諸葛瞻と張遵らは戦死した。
- 『漢晋春秋』が伝えるところによると、諸葛尚は父の敗死を知り、「父子は国の厚恩を受けながら、早く黄皓を斬らず、このような惨敗を招いた。何の面目で生きていられよう」と嘆いた。そして馬を駆って魏軍に突入し、戦死した。
- 『三国演義』の諸葛尚は、兵書に通じ、武芸に長けた少年で、自ら志願して先鋒を務める。鄧忠・師纂の二将を単騎で相手に傷を負わせ、さらに、鄧艾の降伏勧告書を前にためらった父に、「三顧の意があるのでは」と詰め寄る。諸葛瞻は書を破って使者を斬り、「私は子に及ばない」と言った。これは演義の筋書きで、史書にはない。
- 演義は、城壁から父の敗死を見た尚が、張遵の制止を振り切って敵陣へ駆け込み、戦死したと描く。『後漢演義』は、死ぬ前に魏兵数名を倒したとも記す。
- 次子の諸葛京は幼くて従軍せず、咸熙元年(264年)に河東郡へ移された。のち晋で眉県令、江州刺史を務めた。諸葛一族のうち、史書に子孫の記録が残るのは京だけとされる。
- 陳世崇は「孔明の子の瞻、孫の尚は戦死した」と書き、孫奇逢は、蜀の滅亡で祖先に恥じなかった8人の一人に、諸葛尚を挙げた。鍾惺は「臣として忠、子として孝、孫として慈で、父を超え祖を越えた」と評した。李贄は、父子が役に立たなかったのではなく、孔明が聡明さを使い尽くして子孫に残さなかったのだと、皮肉まじりに称えた。毛宗崗は、「綿竹で戦死した心は、五丈原の心と同じ」とし、尚らの死で武侯は存するとした。
- 綿竹には、諸葛瞻父子を祀る諸葛双忠祠がある。『綿竹県志』では、清の乾隆3年に建てられた。墓には、「後漢行都護衛将軍平尚書事諸葛瞻子尚之墓」と刻まれた碑が立つ。成都をはじめ各地の武侯祠では、諸葛亮の両脇に、諸葛瞻と諸葛尚の像が並ぶことが多い。
主な出典
百度百科(日本語版)の記述、同ページが引く『資治通鑑』『後漢演義』『三国志演義』、陳世崇・孫奇逢・李贄・毛宗崗らの評、『四川文物』の綿竹諸葛瞻父子墓祠の報告、諸葛瞻の項の『漢晋春秋』の記述
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
父の指揮のもとで戦い、持ち場に殉じた行動から、規律は高めに置いています。
国から受けた恩を口にして、父とともに魏軍へ突入した行動から、動機は他者寄りの側に置いています。ただし、史書に残る行動はこの最期だけで、根拠は多くありません。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。