CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
許靖
人物評で名を馳せ、虚名とも言われた司徒
許靖は、人物評の名士として名を馳せ、のちに益州に身を寄せて蜀で司徒にのぼった人物です。袁徽や諸葛亮は人望と英才を認めた一方、法正は名声に実力が伴わないと見ました。経歴は正史『三国志』の許靖伝などをもとにしています。
従弟の許劭と並んで人物評の名士とされた。董卓の時代に官界へ入ったが、連座を恐れて各地を転々とし、江東、交州へと逃れた。益州牧の劉璋に招かれて郡太守を務め、劉備が蜀に入ると降った。劉備は法正の進言を入れて許靖を重く用い、蜀で司徒にのぼらせたが、実権は伴わなかった。
THE WAY OF LIFE
許靖の生き方
人を見る眼と、言葉で人を立てる力で名を得た。宋忠は「当世の具あり」と見込み、諸葛亮は「人望があり、失うべからず」と言ってその名を借りることを勧めた。
逃げることを厭わず、そのたびに人を頼った。晩年は質素に暮らし、実権のない位を静かに受けた。
持ち味と、その裏側
人物を見る眼と、人の名を広める力。袁徽は「英才偉士、智略は事を計るに足る」と評し、危難のときには人を先にして、一族とも飢えと寒さを分け合ったと伝わる。一方で、身を守ることが先に立ち、大事な場面で動くのが遅れた。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
2世紀生〜222年(年七十を過ぎる)
豫州汝南郡平輿県の人。人物評で知られた従弟の許劭と並べて語られる。
- 若くして従弟の許劭とともに人物評で名を知られた。許劭が郡の功曹を務めた際は推挙されず、生計を立てるのに苦労したと伝わる(『三国志』許靖伝)。
- 董卓が政権を握ると、吏部の人事に加わり、巴郡太守に任じられたが赴任せず、御史中丞となった。周毖が殺されると連座を恐れて逃れ、江東、交州へと移った。
- 交州にいたころ、曹操の招きを受けたが応じなかった。使者の張翔は、許靖の書簡を帰路の水に投じたと伝わる。
- 益州牧の劉璋に招かれ、巴郡、広漢、蜀郡の太守を歴任した。劉備が成都を囲むと、城壁を越えて逃げようとして捕らえられた。
- 劉備は法正の進言を入れて許靖を左将軍長史とし、のちに司徒にのぼらせた。実権はなく、222年に没した。
主な出典
『三国志』蜀書「許麋孫簡伊秦伝」(許靖伝)、同「龐統法正伝」(法正の評)。経歴は Wikipedia「許靖」の記述を基にしています。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:真なる中立
官職の筋は通しつつ、身の安全のためには逃亡も辞さなかったので、規律は中立に置いています。
名声と身の安全を保つことを先に考えて動く姿から、動機は中間に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。