CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
裴秀
製図六体を定め、司馬炎の世継ぎ争いを決めた晋の地図の祖
裴秀は、字を季彦といい、河東郡聞喜県の人です。曹爽に仕えたのち司馬昭の幕僚となり、諸葛誕の乱の平定に関わります。司馬昭の世継ぎ争いでは、司馬炎を立てるよう強く勧めました。晋の成立では尚書令として魏から晋への禅譲に中心的な役割を果たし、司空に進みます。地図を作り、縮尺や方位の基本を定めた「製図六体」でも知られます。271年、寒食散(五石散)を飲んだ際の誤りがもとで、48歳で亡くなりました。経歴は『晋書』をもとにしています。
字は季彦。河東郡聞喜県の人で、父は裴潜。幼い頃から学問を好んだ。毌丘倹の推挙で曹爽の掾となり、244年に父が没すると爵位を継いだが、財産は兄弟に譲った。249年、曹爽が処刑されて免職となったが、のち廷尉正として復職した。司馬昭の司馬となり、軍政について進言して多くが採用された。曹髦に敬愛され、討論会に加わって「儒林丈人」と称された。257年の諸葛誕の乱では親征に同行した。264年、司馬昭の世継ぎとして司馬炎を立てるよう強く勧め、司馬炎が世子となった。265年、司馬炎が晋王を継ぐと尚書令となり、同年の魏から晋への禅譲で中心的な役割を果たして鉅鹿公に封じられた。268年、司空に進んだ。271年に没した。
THE WAY OF LIFE
裴秀の生き方
地図に打ち込んだ。『禹貢地域図』十八篇を作り、縮尺・方位・距離などの基本を定めた製図法「製図六体」を考えた。絹八十匹分もの巨大な『天下大図』を縮め、持ち運べる『地形方丈図』にもまとめたと伝わる。中国の地理学の歴史に大きく貢献したとされる。
司馬昭の世継ぎ争いでは、司馬炎を立てるよう強く勧めた。司馬炎は不安のあまり、裴秀に「人には高貴となる相というものがあるのだろうか」と尋ねたと伝わる。
持ち味と、その裏側
学問と制度の整備。地図の製作に加え、朝廷の儀礼を創り、五等爵の復活の建議にも関わった。儒学に通じ、『易経』『楽経』についての論文も著した。一方、官有の稲田の横領を指示したとして李憙に弾劾されたが、司馬炎がかばって罪には問われなかった。発明家の馬鈞を議論で言い負かして吹聴し、傅玄から咎められた逸話も残る。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
224年〜271年(享年四十八)
河東郡聞喜県の人。字は季彦。父は裴潜。
- 幼少: 学問を好み、八歳で文章を作った。叔父の裴徽を訪れる客が、十余歳の裴秀にも会って帰ったため、「後進の領袖に裴秀あり」と言われた。
- 曹爽に仕える: 毌丘倹の推挙で曹爽の掾となる。244年、父・裴潜が没し、爵位を継いだ。財産は兄弟に譲った。何晏に任用され、賈充らとともに黄門侍郎となった。
- 249年: 高平陵の変で曹爽が処刑され、故吏として免職される。のち廷尉正として復職する。
- 司馬昭の幕僚の頃: 司馬昭の司馬となり、軍政の進言が多く採用される。曹髦に敬愛され、「儒林丈人」と称された。
- 257年: 諸葛誕の乱で親征に同行し、乱の平定後に尚書・魯陽郷侯となる。
- 264年: 司馬昭の世子問題で、司馬炎を立てるよう強く勧める。官制の改革と五等爵の復活の建議にも関わり、済川侯に封じられる。
- 265年: 司馬炎が晋王を継ぐと尚書令・光禄大夫となる。同年12月の魏から西晋への禅譲で中心的な役割を果たし、鉅鹿公となった。
- 268年: 司空に進む。
- 271年: 没した。寒食散(五石散)を服用した際、温めて飲むべき酒を、誤って冷酒で飲んだことが死因とされる。寒食散は、何晏が流行させたと伝わる薬である。尚書三十六曹の整理の構想は上奏できないまま没したが、呉の討伐を訴える草稿が遺され、死後に司馬炎へ届けられた。司馬炎は「危うい時にも王室を忘れなかった」と称えた。
主な出典
『晋書』裴秀伝。経歴は Wikipedia「裴秀」の記述も参照しています。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・中立
魏から晋への体制の移行を支え、制度や儀礼の整備に力を注いだことから、規律は秩序寄りに置いています。
司馬炎の擁立と禅譲を支えて地位を得た一方、学問と制度の整備にも力を尽くしたことから、動機は中立に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。