CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
衛瓘
鄧艾を捕らえて蜀の乱を収め、賈南風に殺された晋の重臣
衛瓘は、字を伯玉といい、司隷河東郡安邑県の人で、魏の尚書令・衛覬の子です。景元4年(263年)、司馬昭の命で鄧艾と鍾会の蜀征伐を監督し、鍾会に訴えられた鄧艾・鄧忠の父子を夜のうちに捕らえて洛陽へ護送しました。鍾会の謀反が発覚すると、胡烈らとともに反乱を平定します。西晋では司空・太保を務めましたが、衛瓘は皇太子の司馬衷(のちの恵帝)の資質を疑い、宴席で武帝の座を撫でて廃嫡を暗に勧めたといい、妃の賈南風に恨まれたと伝わります。元康元年(291年)、賈南風の策で、楚王司馬瑋に子や孫ら九人とともに殺されました。経歴は『晋書』衛瓘伝と『三国志』魏書 鄧艾伝・鍾会伝をもとにしています。
魏から西晋に仕えた重臣。蜀の平定に監軍として加わり、鄧艾を捕らえ、鍾会の乱を収めた。西晋では司空・太保を務めたが、291年に賈南風の策で、楚王司馬瑋に殺された。
THE WAY OF LIFE
衛瓘の生き方
混乱のなか、一夜で鄧艾の軍を押さえた。衛瓘は、状況を見て素早く動く人物像です。
皇太子の資質を疑いながら、はっきり言い切らなかった。慎重さが、のちに身を滅ぼしたとも読めます。
持ち味と、その裏側
混乱の中でも、一夜で軍を掌握する決断と統率。国の制度を整える進言もした実務の力。一方で、鄧艾の殺害で世間の非難を受け、皇太子の廃嫡を最後まで言い切れなかったことが、晩年の災いにつながった人物です。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
黄初元年(220年)〜元康元年(291年)
司隷河東郡安邑県の人。字は伯玉。父は衛覬、弟は衛寔。
- 司隷河東郡安邑県の人で、字は伯玉。父は魏の尚書令の衛覬。十歳ごろに父を亡くし、母に孝行を尽くした。父の爵位を継いだ。
- 尚書郎、通事郎、中書郎と進み、中書郎は十年務めた。曹爽ら権臣とは親しくせず、傅嘏に重んじられた。
- 景元元年(260年)、曹奐の即位後に侍中となり、持節を帯びて河北を慰労した。のち廷尉卿となった。
- 景元4年(263年)、司馬昭の命で、鄧艾と鍾会の蜀征伐を監督した。蜀の平定後、鍾会は鄧艾を陥れようとして、衛瓘に訴えた。衛瓘は同意して上奏した。鄧艾捕縛の詔が下ると、衛瓘は夜のうちに鄧艾軍の諸将を押さえ、鄧艾・鄧忠の父子を捕らえて洛陽へ護送した。
- 鍾会の謀反が発覚すると、胡烈・胡淵とともに反乱を平定し、鍾会を滅ぼした。護送中の鄧艾を部下が救おうとすると、田続を通じて鄧艾父子を殺させた。朝廷は衛瓘の功を賞したが、鄧艾父子の殺害は、世間の非難を招いた。
- 265年、西晋が成立すると、衛瓘は征東将軍となり、菑陽公に進んだ。269年に青州、271年に幽州の都督・刺史を務めた。幽州では、烏桓と拓跋部の対立を利用して烏桓を帰順させ、拓跋部の勢力を削いだ。
- 咸寧4年(278年)に尚書令・侍中、太康4年(283年)に司空となった。九品官人法の廃止と郷里選挙の復活を、司馬亮らとともに上疏した。
- 衛瓘は、皇太子の司馬衷(のちの恵帝)の資質を疑っていた。ある宴席で、酔ったふりをして武帝の座を撫で、「この座は惜しまれます」と、廃嫡を暗に勧めた。武帝は「公は本当に酔っているな」とかわし、衛瓘はそれ以上、言わなかった。この一件で、司馬衷の妃の賈南風は衛瓘を恨んだと伝わる。
- 永熙元年(290年)、衛宣の離婚をきっかけに政務を離れ、太保となった。元康元年(291年)3月、楊駿の誅殺後に録尚書事として復帰し、司馬亮とともに朝政を補佐した。しかし、楚王司馬瑋の横暴を抑える試みは失敗し、かえって反発を招いた。
- 賈南風は、司馬亮と衛瓘を除くことを決め、詔書を偽造した。司馬瑋は北軍を動かし、衛瓘は抵抗せず逮捕された。栄晦が私怨から衛瓘と、その子や孫ら九人を殺した。司馬亮も殺された。
- のち衛瓘の娘の上書などにより、名誉が回復された。蘭陵郡公に追封され、諡は「成」となった。栄晦は一族ごと誅殺された。孫の衛璪と衛玠は、医者の家にいたため、難を免れた。
主な出典
『晋書』衛瓘伝、『三国志』魏書 衛覬伝・鄧艾伝・鍾会伝
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・中立
朝廷の命と制度を重んじて動いた記録から、規律は秩序寄りとしています。
国家の安定のために動いた記録が多い一方で、保身や私怨とも読める場面があるため、動機は中間に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。