CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
蘇則
河西の乱を鎮め、曹丕の前でも直言をやめなかった剛直の臣
蘇則は、字を文師といい、司隷扶風郡武功の人です。悪を憎む剛直な人柄で、前漢の汲黯を慕いました。酒泉・安定・武都の太守を歴任し、荒れた金城郡では民と食糧を分け合って立て直します。延康元年(220年)、河西で反乱が広がると、出兵を禁じる詔に背いてでも兵を出し、麴演・張進を討って河西を平定しました。侍中となってからも、董昭の枕になることを拒み、狩りで逃げた鹿のために役人を斬ろうとする曹丕を止めて、「卿は直臣である」と言われました。経歴は『三国志』魏書 任蘇杜鄭倉伝(蘇則伝)をもとにしています。
涼州の太守を歴任し、荒れた金城郡を立て直して、河西の乱を鎮めた。曹丕の侍中となっても直言をやめず「直臣」と呼ばれたが、疎まれて左遷され、任地へ向かう途中で没した。
THE WAY OF LIFE
蘇則の生き方
言うべきことは、相手が帝でも言う。蘇則は、剛直さと行動力を兼ね備えた人物像です。
乱れた辺境では自ら兵を率い、宮中では言葉で帝を止めた。決断の早さと、信条の強さ、表現のまっすぐさに、その生き方を重ねています。
持ち味と、その裏側
辺境の混乱を自ら収める行動力と、帝の前でも曲げない直言。金城の立て直しや河西の平定は、太守の枠を超えた智勇の表れでした。一方で、言葉の強さは主君に疎まれ、左遷される原因にもなりました。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年不詳〜黄初4年(223年)
司隷扶風郡武功県の人。字は文師。前漢の蘇建の子孫とされる扶風の名族の出。若くして学問と品行で知られ、孝廉・茂才に挙げられたが応じなかった。
- 剛直で悪を憎み、前漢の汲黯を慕った。興平年間、三輔の大乱で北地・安定へ逃れ、のちに太白山に隠れて書物を友とした。孝廉・茂才に挙げられ、三公の府にも招かれたが、いずれも応じなかった。
- 酒泉太守を振り出しに、安定・武都の太守を歴任し、どこでも威名をあらわした。建安20年(215年)、張魯を討つ曹操が武都を通ったとき、気に入られて道案内を務めた。その後、下辯の氐族を鎮め、河西への道を開いて、金城太守となった。
- 金城は韓遂の乱で荒れ果て、戸数は五百にも満たなかった。蘇則は羌族・胡族を招いて得た牛や羊で貧しい老人を養い、自らも民と食糧を分け合った。一月ほどで流民が数千家戻り、禁令を明らかにして、自ら耕作を教えると、その年は大豊作になったという。
- 延康元年(220年)、曹操が没すると、西平の麴演が背いたが、蘇則が兵を向けると降った。まもなく麴演は周りの郡と結んで再び乱を起こし、張掖の張進、酒泉の黄華も太守を退けてこれに応じた。将軍の郝昭・魏平は、詔によって西へ渡れなかった。蘇則は「賊は寄せ集めで、今討てば善人はこちらにつく。大軍を待てば、善悪が固まってしまう。詔があっても、理にかなえば専断してよい」と説いて、兵を出した。
- 蘇則は武威を救い、張掖の張進を討ちにかかった。麴演が助けると称して三千の兵で近づくと、蘇則はこれを誘い出して斬った。続いて張掖を破って張進を斬り、黄華も降って、河西は平定された。この功で都亭侯に封じられた。
- 侍中となり、董昭と同僚になった。董昭が蘇則の膝を枕にして寝ると、蘇則は押しのけて「蘇則の膝は、佞人の枕ではない」と言った。漢が魏に禅ったときには、曹植とともに喪服を着て泣いていた。のちに曹丕が「泣いた者がいると聞く」と言うと、蘇則はひげを逆立てて反論しかけ、傅巽につねられて止められた。
- 曹丕が「敦煌から献じられた大きな真珠を、市でもっと買えないか」と問うと、蘇則は「陛下の徳が沙漠まで届けば、求めずとも来ます。求めて得たものは、貴ぶに足りません」と答えた。狩りで柵が破れて鹿が逃げ、怒った曹丕が役人を斬ろうとすると、蘇則は「古の聖王は、獣のために人を害さなかった」と死を賭して諫め、曹丕は「卿は直臣である」と言って皆を許した。しかし、これで疎まれるようになった。
- 黄初4年(223年)、東平相(河東相とも)に左遷され、任地へ向かう途中で病没した。剛侯と諡された。陳寿は「威をもって乱を平らげ、政事にすぐれ、しかも剛直で、その風烈は称えるに足る」と評している。
主な出典
『三国志』魏書 任蘇杜鄭倉伝(蘇則伝)と、その裴松之注(『魏略』『魏名臣奏』『魏書』)
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・善
法と筋を重んじながら、詔に背いてでも民を救う道を選んだ姿から、規律は秩序寄りに置きつつ、最上にはしていません。
民と食糧を分け合い、帝の機嫌より正しさを選ぶ姿から、動機は他者のためへ強く置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。