CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
薛綜
蜀の使者の字遊びを、字遊びで切り返した呉の学者
薛綜は、呉の文臣です。若いころ、一族とともに戦乱を避けて交州へ行き、そこで劉熙に学びました。蜀の使者張奉が、同僚の闞沢の名前を字に割って嘲ったとき、酒を勧めて回るついでに、「犬があれば独、犬がなければ蜀、横の目に苟の身、虫がその腹に入る」と蜀の字を割って返し、さらに「呉」の字も割って座を沸かせました。のち、交州の人選を述べた上疏と、公孫淵への孫権の親征を諫めた上表で知られます。経歴は『三国志』呉書「張厳程闞薛伝」をもとにしています。
沛郡竹邑の人で、字は敬文。先祖は戦国斉の孟嘗君田文という。年少のころ経学に通じ、文を作ることに長けて優れた才があったが、族人に従って乱を避けて交州へ行き、劉熙に学んだ。210年、士燮が孫権に帰属すると、薛綜を五官中郎将に召し、合浦・交阯の二郡太守とした。交州が開かれたばかりのころ、刺史の呂岱が大軍を率いて討伐すると、薛綜は同行し、海を渡って南征し、九真に及んだ。事が終わって都に戻り、謁者僕射を兼ねた。蜀の使者張奉が孫権の前で、尚書の闞沢の姓名を字に割って嘲り、闞沢が答えられなかったとき、薛綜は酒を勧めて回るついでに、字を割って切り返した。231年、南土が清定したとして呂岱を交州から召し出すと、薛綜は後任が適任でないことを恐れ、長い上疏で交州の人選の重要さを述べた。同じ年、建昌侯孫慮が鎮軍大将軍となって半州に駐屯すると、長史となり、外は諸事を掌り、内は書籍を授けた。232年に孫慮が没すると、入って賊曹尚書を守り、尚書僕射に進んだ。公孫淵が降ったのちに叛き、孫権が怒って自ら出征しようとしたとき、上表して諫め、多くの朝臣も諫めたので、孫権は北へ行かなかった。同年正月、祭祖の賛辞を作るよう詔されると、たちまち草して文辞は誠実で見事で、孫権が「さらに頭と尾を加えて三段にせよ」と言うと、また増補し、人々は称えた。240年、選曹尚書。242年、太子少傅となり、選部の職を兼ねた。孫権が紫綬嚢を賜ろうとすると、紫は身の及ばぬ色だと辞退したが、孫権は「太子は年少で、道に入って日が浅い。君は文で博くし、礼で約すべきだ。茅土の封にふさわしいのは、君をおいて誰か」と言った。243年春、没した。著に『私載』『五宗図述』『二京解』がある。
THE WAY OF LIFE
薛綜の生き方
蜀の使者が、呉の席で、呉の尚書の名前を字に割って笑った。闞沢は答えられなかった。薛綜が酒を注いで回り、張奉に言った。「蜀とは何か。犬があれば独、犬がなければ蜀。横の目に苟の身、虫がその腹に入る」。張奉が言い返した。「あなたがたの呉の字は、割らないのか」。薛綜は、口をついて出た。「口がなければ天、口があれば呉。君は万邦に臨む、天子の都」。座の人々は、どっと笑った。張奉には、言葉がなかった。
呂岱が交州から召された。薛綜は後任の人選を恐れて、筆をとった。「州牧郡守は、清く有能な人でなければなりません。荒れた辺境は、百姓と国の禍福が、とりわけ大きいのです。国の安危は、任じる人にあります。察しないわけにはいきません」。
公孫淵が降り、そして叛いた。孫権は怒り、自ら征とうとした。薛綜は上表した。「千金の子は、堂の檐の下に座らないと言います。まして万乗の君が、海を渡るのですか。辽東の敵は馬で鳥獣のように散り、行っても無人の地が残るだけです。海には成山の険があり、霧と塩気は脚気を広めます。中原が平らげば、辽東はおのずから滅びます」。多くの朝臣も諫めた。孫権は、北へ行かなかった。
持ち味と、その裏側
経学と文章の素養、言葉の速さ、そして書かれた意見書の確かさ。交州の人選では、土地の風俗と歴代の長吏の失敗を並べて論じ、公孫淵への親征には三つの理由を挙げて諫めた。太子の傅として孫和を教え、子の薛瑩、孫の薛兼まで、三代にわたって東宮の師となる家の祖になった。一方で、交州の人々を「虫獣と同じ」と記した上疏には、当時の中原側の見方がそのまま出ている。機知と見識が、時代の偏見と同じ筆で書かれた人。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年不詳〜赤烏6年(243年)
沛郡竹邑県の人。字は敬文。先祖は斉の孟嘗君という。子に薛珝・薛瑩、孫に薛兼。
- 沛郡竹邑の人で、字は敬文。先祖は戦国斉の孟嘗君田文で、薛に封じられた。秦が六国を滅ぼすと祀りを失い、子孫は各地に散った。漢の高祖が斉の故地を過ぎて孟嘗君の後を求めると、孫の田陵・田国が見つかったが、兄弟は互いに譲り合って封を受けず、竹邑に去って住み、薛を姓とした。田国から薛綜まで、州郡で代々典籍を掌り、名族であった。
- 若いころ経学に通じ、文を作ることが得意で、優れた才があった。族人を頼って乱を避け、交州へ行き、劉熙に学んだ。
- 建安15年(210年)、士燮が孫権に帰属すると、薛綜を五官中郎将に召し、合浦・交阯の二郡太守とした。交州がまだ開かれたばかりのころで、刺史の呂岱が兵を率いて討伐すると、薛綜も一緒に行き、海を越えて南征し、九真に至った。事が終わると都に戻り、謁者僕射を兼ねた。
- 都に戻ったころ、蜀の使者張奉が孫権の前で、尚書の闞沢の姓名を字に割って嘲った。闞沢が答えられないでいると、薛綜が杯を持って座を巡って酒を勧め、張奉に言った。「蜀とは何か。犬があれば独、犬がなければ蜀、横の目に苟の身、虫がその腹に入る」。張奉が「あなたがたの呉の字も割ってはどうか」と言うと、薛綜は即座に言った。「口がなければ天、口があれば呉。君は万邦に臨む、天子の都」。座にいた者は笑い、張奉は返す言葉がなかった。薛綜の機転は、おおよそこのようであったという。
- 231年(黄龍3年)、南土が清定したとして、朝廷は呂岱を交州から召し出した。薛綜は、後任が適任でないことを恐れて、上疏した。舜が南巡して蒼梧に没し、秦が桂林・南海・象郡を置き、漢の武帝が九郡を開いて交阯刺史を置いた経緯を述べ、錫光・任延が犁耕や冠履、媒官、学校を教えて四百年になること、それでも風俗は異なり、地は広く険しく乱れやすいことを論じた。そして、長吏の選び方の失敗として、日南太守の黄蓋(呉の黄蓋とは別人)が主簿を打ち殺して追われたこと、九真太守の儋萌が宴で功曹の番歆を打ち殺し、報復で射殺されたこと、刺史の朱符が同郷人を長吏にして苛政を敷き、逃げ死にしたこと、張津が部下に侮られて殺されたことなどを挙げた。さらに、歩騭・呂岱が来て秩序を立てたことを述べ、「州牧郡守は清く有能でなければならず、荒遠の辺は禍福がとりわけ大きい。呂岱が南へ戻らないなら、新しい刺史は精密に選び、八郡を検摂し、方略智計があって高涼の宿賊を次第に治められる者でなければならない。ただの中人で、常法を守るだけで奇数異術がなければ、群悪は日に日に増す。国の安危は任ずるところにある。察しないわけにはいかない」と述べた。
- 同じ年、孫権の次子で建昌侯の孫慮が鎮軍大将軍となって半州に駐屯すると、薛綜はその長史となり、外は諸事を掌り、内は書籍を授けた。232年正月に孫慮が没すると、入って賊曹尚書を守り、尚書僕射に進んだ。
- 公孫淵が呉に降ったのち叛くと、孫権は大いに怒り、自ら征とうとした。薛綜は上表して諫めた。帝王は万邦の元首であり、居るには門戸を重ねて拍子木で備え、行くには道を清めて車の速さを節するのは、天下の福運を守るためだと述べ、孔子が筏で海に浮かぶと言ったとき子路が喜んで退けられたこと、漢の元帝が楼船に乗ろうとして薛広徳が頸を刎ねて車を血で染めようと請うたことを引いた。水火は帝王の踏むべきものではない、「千金の子は堂の檐の下に座らない」と言う、まして万乗の君が、と言った。そして、辽東は小国で備えも弱いが、出兵すべきでない理由を三つ挙げた。①地は寒く貧しく、民は馬に習って移り散じ、行っても無人の空地を得るだけであること。②海は波が荒く成山の険があり、潮と風は変わりやすいこと。③霧と塩気は脚気を広め、航海する者でこれを病まない者は少ないこと。多くの朝臣も諫め、孫権は北へ行かなかった。
- 232年正月、孫権は薛綜に祭祖の賛辞を作らせ、通り一遍の言葉を用いるなと命じた。薛綜はたちまち草し、文辞は誠実で輝き、孫権は「さらに頭と尾を加えて、三段にせよ」と言った。薛綜がまた加えると、辞意はみな新しく、人々は称えた。240年、選曹尚書に転じ、242年、太子少傅となって選部の職を兼ねた。孫権が紫綬嚢を賜ろうとすると、紫は身に過ぎると辞退したが、孫権は「太子は年少で、道に入ってまだ日が浅い。君は文で博くし、礼で約すべきだ。茅土の封にふさわしいのは、君をおいて誰か」と言った。名儒として師傅の位にあって、なお選挙を兼ね、たいへん優遇された。
- 243年春、没した。詩賦・難論を数万言作り、『私載』と名づけ、『五宗図述』『二京解』を考定して、世に伝えた。陳寿は「薛綜は学識規納で、呉の良臣となった。子の薛瑩は先風を継いだが、暴酷の朝にたびたび顕職に登ったのは、君子が危ぶむところだ」と評した。子に威南将軍の薛珝、呉の選曹尚書・少傅の薛瑩があり、孫の薛兼は西晋の丞相長史・尚書・太子少傅となった。『晋書』は「綜から兼まで、三世、東宮に傅たり。談ずる者これを美とした」と記す。
主な出典
『三国志』呉書「張厳程闞薛伝」、同注引『呉録』。経歴は 百度百科「薛綜」の記述も参照しています。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・中立
上疏と上表で、制度と人選の筋を通して意見を述べた人です。礼法を重んじ、文官として朝廷の規範のなかで働いたことから、規律は秩序寄りに置いています。
交州の人選を案じて意見書を出し、孫権の親征を諫めたのは、国の安危を思ってのことでした。一方で、太子の師傅として選部の職も兼ね、朝廷の仕組みのなかで働いた人です。動機は組織・国のためにあるとして、中立に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。