CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
蔡邕
董卓に仕え、その死に嘆いて獄に倒れた後漢の大学者
蔡邕は、字を伯喈といい、兗州陳留郡圉県の人で、蔡琰の父です。母が病んだときは3年にわたって看病し、孝行で評判になりました。辞章や算術、天文を好み、琴や書にも優れ、熹平4年(175年)には、六経の文字の校訂を願い出て、洛陽の太学の門外に石碑が立てられます(熹平石経)。光和元年(178年)に宦官の専横を批判して朔方へ流され、のち12年の間、各地を転々としました。189年に董卓に召され、左中郎将にまでのぼります。192年に董卓が討たれると、その死を嘆いたことを王允に咎められて廷尉に下され、獄中で亡くなりました。経歴は『後漢書』蔡邕列伝をもとにしています。
陳留郡圉県の人。琴と書に優れた学者で、熹平石経の文字を自ら書いたと伝わる。宦官を批判して流罪になり、のちに董卓に召された。董卓が討たれた時に嘆息したため、王允に投獄され、獄中で亡くなった。
THE WAY OF LIFE
蔡邕の生き方
書と琴と学問に生き、文章で世を動かした。蔡邕は、構想と信条、そして表現の高い人物像です。
言葉は強いが、行動は慎重。表現の高さと、決断・挑戦の低さに、その学者らしい姿を重ねています。
持ち味と、その裏側
天文・算術・音律に通じ、書や文章にも優れていた。熹平石経の校訂や、『後漢書』に残る多数の著作が、その学識を示します。一方で、董卓に近づいたことが、最期の災いとなりました。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
永建7年(132年)または陽嘉2年(133年)〜初平3年(192年)
兗州陳留郡圉県の人。字は伯喈。娘は蔡琰(蔡文姫)。
- 兗州陳留郡圉県の人。母が病んだ時には、3年にわたって看病を続けた。母の死後は、墓のそばに庵を結んだ。孝行は評判になったと伝わる。
- 辞章や算術、天文を好み、音律にも通じた。琴の名手としても知られ、書でも名を成した。
- 熹平4年(175年)、ほかの学者とともに、六経の文字の校訂を願い出た。許されて、洛陽の太学の門外に、石碑が立てられた(熹平石経)。篆書は、蔡邕の自筆とされる。
- 光和元年(178年)、宦官の専横を厳しく批判する上奏をした。内容が曹節に漏れて、恨みを買い、罪に問われて朔方に流された。のちに赦されたが、身の危険を避けて、揚州に逃れた。12年の間、各地を転々とした。
- 中平6年(189年)、董卓に召された。初めは病と称して断ったが、董卓が怒ったため、洛陽へ出向いた。短期間のうちに、左中郎将にまでのぼった。
- 初平3年(192年)、王允が董卓を討った。蔡邕は、董卓の死を聞いて、嘆息した(慨然として顔色を変えた)と伝わる。王允はこれを咎めて、廷尉に下した。
- 蔡邕は、刑の代わりに『漢史』の続成を願ったが、許されなかった。そのまま獄中で亡くなった。『三国志演義』では、董卓の遺体にすがって泣く場面として描かれている。
主な出典
『後漢書』蔡邕列伝、『三国志』魏書 董卓伝、『三国志演義』
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:秩序・中立
漢の礼や制度を重んじて、書き残そうとした姿から、規律は高めに置いています。
学問と文章を、国のために使おうとした点で、動機は中間に置いています。董卓への態度は、恩義と学者の立場のあいだで揺れていました。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。