CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
蒯越
劉表の謀主として宗賊を平らげ、荊州を曹操に明け渡した策士
蒯越は、字を異度といい、襄陽中廬の人です。大将軍何進に辟されて東曹掾となり、宦官の誅殺を勧めましたが容れられず、汝陽令に出ました。何進の敗死を予見したと『傅子』は記します。190年に劉表が荊州に入ると、宜城で蒯良・蔡瑁と対策を協議し、宗賊の頭目を誘って斬り、その部衆を収めて荊州を安定させました。章陵太守・樊亭侯に封じられ、官渡の対峙の際には劉表に曹操への帰順を勧め、建安13年(208年)に劉表が没すると、劉琮に曹操への降伏を勧めます。曹操は「荊州を得たことより蒯異度を得たことが喜ばしい」と記したと伝わり、蒯越は建安19年(214年)に没しました。経歴は『後漢書』袁紹劉表伝と『三国志』魏書 董二袁劉伝をもとにしています。
襄陽中廬の人。大将軍何進に辟されて東曹掾となり、宦官の誅殺を勧めたが容れられず、汝陽令に出た。何進の敗死を予見したと『傅子』は記す。劉表が荊州に入ると、宗賊の頭目を誘って斬り、その部衆を収めて荊州を安定させた。建安13年、劉表の没後に劉琮へ曹操への降伏を勧め、建安19年に没した。
THE WAY OF LIFE
蒯越の生き方
宗賊の頭目を騙して斬り、部衆を吸収した策は、『司馬彪戦略』が劉表の言として「臼犯の謀」と記すほど、権謀に富む。荊州の安定という結果は残したが、手段の残酷さは同時代から批判されている。
『三国志演義』では蒯良の弟として描かれ、宴席で蔡瑁が劉備を害するのを防ぐ役割を果たす。こうした場面は演義の脚色で、史書の事績とは別に読む。檀渓の逸話は『魏晋世語』の記録だが、孫盛は「世俗の妄説」と退けている。
持ち味と、その裏側
先を読む構想力と、州の内情を読み切る実務感覚。曹操に「荊州より蒯異度を得たことが喜ばしい」と言わしめた人材感覚はあるが、晩年は目立った功績を残していない。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年不詳〜214年(建安19年)
襄陽中廬(現在の湖北省襄陽市西南)
- 188年頃(中平5年頃): 大将軍何進に辟されて東曹掾となる。宦官の誅殺を勧めるが容れられず、汝陽令に出る(『傅子』)。
- 190年(初平元年): 劉表が荊州に入り、宜城で蒯良・蔡瑁と対策を協議。宗賊の誘殺を進言する(『司馬彪戦略』)。
- 190年代: 宗賊の頭目を誘って斬り、その部衆を収める。章陵太守・樊亭侯に封じられる(『傅子』)。
- 200年(建安5年): 官渡の対峙の際、劉表に曹操への帰順を勧める(『三国志』)。
- 208年(建安13年): 劉表の没後、劉琮に曹操への降伏を勧める(『三国志』)。曹操は荊州平定後、「荊州を得たことより蒯異度を得たことが喜ばしい」と記したと伝わる(『傅子』)。
- 214年(建安19年): 没。臨終に家族を曹操に託し、曹操はこれを受けたと伝わる(『傅子』)。
主な出典
『後漢書』袁紹劉表伝、『三国志』魏書 董二袁劉伝(裴松之注『傅子』『司馬彪戦略』を含む)。『三国志演義』(蒯良の弟として)。
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:混沌・悪
規律2のため混沌。宗賊の誘殺や、劉琮への降伏進言など、権謀を重んじる判断が目立つ。
荊州の安定を理由に、宗賊の頭目を誘って斬る手段を取った。その結果は州の安定につながったが、手段は残酷で、動機は低く評価します。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。