CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
董太后
霊帝の母として朝政に関わり、何太后と後継を争った太后
董太后は、霊帝の生母で、孝仁皇后と呼ばれました。霊帝の即位後、皇太后となり、売官で私腹を肥やしたと伝えられます。孫の劉協を養い、何皇后の子の劉弁ではなく、劉協を太子にと望んだため、何太后と不仲になりました。189年6月に突然亡くなり、何太后に殺されたという噂がありましたが、事実かどうかは分かっていません。本人の言葉や考えを伝える記録は少なく、ここでは記録の少なさを踏まえた暫定の値を置いています。
後漢の霊帝の生母。孝仁皇后。永楽宮に住んだことから永楽太后とも呼ばれた。霊帝の即位後、皇太后となって朝政に関わり、孫の劉協を養った。189年6月に急に亡くなった。
THE WAY OF LIFE
董太后の生き方
孫の劉協を養い、その立太子を望んだ。身内への思いが強い人物像ですが、本人の言葉は伝わりません。
売官で私腹を肥やしたとされる。ただし、これは後世の記述で、詳細は確認できていません。
持ち味と、その裏側
記録が少ないため、持ち味を特定できません。確かに言えるのは、霊帝の生母として、後継をめぐる宮中の争いの当事者になった立場だけです。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年未詳〜中平6年(189年)
河間郡の人。夫は解瀆亭侯劉萇。子は霊帝(劉宏)。甥に董重。
- 河間郡の人。解瀆亭侯の劉萇に嫁ぎ、のちの霊帝・劉宏を産んだ。劉萇の死後、劉宏が爵位を継いだ。
- 建寧元年(168年)、竇皇后(のち太后)らによって劉宏が皇帝に迎えられると、生母の董氏は『慎園貴人』とされた。翌年に、『孝仁皇后』の尊号が授けられた。永楽宮に住んだことから、『永楽太后』とも呼ばれた。
- 熹平元年(172年)、竇太后が崩じると、董氏が皇太后となった。以後、朝政に干渉して、売官で私腹を肥やしたと伝えられる。時期の記載はない。
- 王美人が産んだ劉協を、董太后が養った。霊帝と何皇后の子の劉弁ではなく、劉協を太子にと望んだため、劉弁の母の何太后と不仲になった。
- 中平6年(189年)に霊帝が崩じ、劉弁が即位して、何皇后が摂政の皇太后となった。権力をめぐる争いは、董太后の甥の董重と、何太后の兄の何進を中心に動いた。董重は失脚して、自殺した。
- 同年6月、董太后は突然亡くなった。何太后に殺されたという噂が流れたが、事実は確定していない。劉萇とともに、慎陵へ合葬された。
- 評価は、朝政への干渉と売官という否定的な面が中心で、本人の言動を伝える記録は乏しい。
主な出典
『後漢書』皇后紀下、日本語版Wikipediaの記述
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:混沌・悪
朝政への干渉が伝えられる一方、規律を示す記録は乏しいため、低めの暫定値を置いています。
記録は、朝政への関与や私腹を肥やしたという否定的な面に偏り、本人の考えを伝える史料が少ないため、動機は自分寄りに置きつつ、暫定としています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。